71.海老沢直樹の憂鬱(4)
今日の対局は4階の「水無瀬」。まだ時間はあるし、直樹は対局室に行く前に3階の棋士室に行って、ちょっと気分転換することを考えた。棋士室に近づくと笑い声が聞こえてきた。まだ時間は早いが随分盛り上がっているようだ。
「今日な、俺会館入る前にな、『どちらが勝つと思いますか』とかテレビ局の人に聞かれたんよ。『実績からいって、やはり海老沢鋭王だと思います』って答えたんやけど、あれはテレビに流れるんちゃうかな?」
「ええっ。月影先生、酷いです。今泉先生はどうですか」
「私も立場上、月影先生と似たことを答えたわ」
「やっぱり関西の皆さんは仲がいいですねえ。東京も移転したら棋士室が是非欲しいですね」
直樹は月影六段と今泉女流四冠の声はすぐに聴き分けられる。残りのもうひとりはテレビでしか聞いたことが無い。最近は半年程前のドキュメンタリー番組のオンデマンド放送で聞いたことがある声だ。
七海はまだわかる。対局もしとるしな。でも月影、お前は今日会うのが初めてとちゃうんか?
直樹は棋士室に入るのは止めて、まだ早すぎるとは思いつつも階段でひとつ上がって、4階の水無瀬の間に向かった。そこで静かに時間が流れるのを待つと、割合すぐに今日の相手が現れた。
「海老沢鋭王、遅くなりました。申し訳ありません」
そう言いながら将棋盤を挟んで直樹の反対側の下座に座ったのは、当然ながら今日の対局相手の天道静香四段だ。先ほどまで棋士室にいたはずで、まだ対局開始まで30分近くある。
「ああ、おはよう。今日はお手柔らかにお願いしますわ」
最近女流棋士が全体的に美人になったというが、この子はやはり群を抜いている。月影が骨抜きにされるのも当然かもしれない。制服姿がまるで学校案内のモデルみたいに、とてもよく似合っている。そういえば、この子は本職のモデルさんでもあったな。
「そんな。こちらこそタイトルをお持ちの方の胸を借りることができる機会は初めてなので、とても緊張しています」
緊張など全然してそうにない。番外戦術というほどのものではないが、直樹は少し相手を探ることにした。
「へー。結構御厨先生とも仲ええ、って聞いてるけどな、指してはくれへんの?」
「御厨竜帝・名人はとてもお忙しい方です。私がお会いしたのも、将棋バラエティ番組と、将棋大賞の場だけです。今度またお仕事でお会いする予定ですが、仲が良いだなんて恐れ多いです」
受け答えも、自然な笑顔も好感度は抜群だ。直樹は妻ひとすじだから浮気をしようと思ったことすら一度もない。でもこの子はなろうと思えば相当の悪女になれそうやな。なる必要もないやろうけど。
「でも、先ほど3階の棋士室で、月影六段や今泉女流四冠とお話することができました。関西の棋士の方々は、あまりなじみのない関東所属の新人の私にもとても優しくして頂けるので、とても人情味がありますね。これも海老沢鋭王のご薫陶の賜物でしょうか」
受け答えもそつがないな。
「せやろ? 高校卒業したらこっちの所属にならへん?」
「そうですね。受ける大学次第ではこちらにお世話になるかも知れません。その時は、いや関東所属のままでも、どうぞよろしくお願い致します」
そういって自然と綺麗なお辞儀をする。棋譜を見たらこの子の32連勝が決して偶然でないことはわかっている。だがこの見た目や一連のやりとりだけでも、若い棋士ならば対局開始前に評価値がかなり悪くなるのではないだろうか。
月影六段の棋力は自分とほぼ同じぐらいまで急伸しているとかなりの評価を直樹はしているが、この子相手だと対局開始前に勝負が決まってしまうのではないだろうか?
「そやね。これから顔を合わせることも多くなるやろしね。とりあえずもう称号で呼ぶのはやめてくれたら嬉しいなあ。なんか壁あるみたいに聞こえるやん」
「もったいないお言葉ありがとうございます。それではお言葉に甘えさせて頂いて海老沢先生とお呼びしますね。ありがとうございます。私のことは天道と呼び捨てにして頂ければ」
「ほならこれからは天道さん、て呼ばせてもらうわ」
「ありがとうございます」
直樹はこんな感じで今日の対戦相手としばらく談笑を続けた。そして5分前になったので話を切り上げて、駒箱から駒袋をとりだし、そして盤面に散りばめられた駒を並べる。
振駒はと金が4枚。つまり直樹は後手だ。これはしゃあない。今回直樹は自分が先手後手、相手が居飛車か振り飛車か、そのどのパターンも序盤は想定して作戦を用意してきた。天道四段の棋譜を見ると、居飛車が多いがそれなりに飛車を振ることもある。そして角換わり、相掛かり、矢倉、横歩取り、雁木をはじめとする現代の流行りの戦法はもちろん、マイナー戦術も駆使するバリエーション豊かな棋譜を何度も復習し直した。
そうして天道四段のクセもある程度は把握できている。天道四段は実力者を相手にする時はとにかく中盤までかなり極端な早指しだ。序盤はともかく、時間の使い方が極端なのは中盤では弱点に成り得る。
そしてもう一つは、棋譜を見るとわかるように他の棋士に比べると奇策が多いことだ。この前の「こなたシステム」といい、ハマれば強いがクセのある手が多い。そして相手が仕掛けた奇策への対応にも強い。自分の奇策は押し通し、相手の奇策は的確に潰す。これは天道四段の思考回路が極めて速いことを意味する。ほとんどの手はほぼ第一勘で指し、必要な終盤に入ったぐらいの時間帯から時間を使う。
だから直樹は敢えて王道を突き詰める。先手がどのように指してきても、研究が進んだ手順、これは直樹の研究ではなくて、プロ・アマ・コンピュータを含めた研究が進んだ手順ということだ。さてこの子は今日はどうするつもりなのかな?