70.海老沢直樹の憂鬱(3)
その日、海老沢直樹は、息子を子乗せ自転車で保育園に連れて行った。保育園で先生に引き渡す時に聞いた話では、そろそろ運動会があるのでその練習を頑張っているらしい。直樹は32歳で結婚し、その1年後に産まれたその子がもうすぐ3歳になる。お互い年齢も年齢だし、タイトルも取ったことだし、そろそろ2人目も欲しいな、と思っているが、外資系で働く妻はあまり乗り気では無いようだ。
平日は毎日仕事がある妻と違って、直樹は仕事がない日の方が多いし、今日みたいにある日だって直樹の方が家を出るのが遅い。
「パパもママが撮ってくれたビデオを後で見るからね」
運動会の当日、直樹には仕事が入っているので、息子が頑張っている姿を現地で見ることはできない。まあこういう職業を選んだのだから仕方がないとは思う。
「あれ? 海老沢さんは今日はお仕事なんですね?」
直樹は平日、仕事がない日の方が多い。そういう時はラフな格好で保育園の送り迎えをする。今日は仕事があるのでスーツ、それもテレビが入るからタイトル戦でも問題ないような高いスーツ姿だ。それが他の保護者には珍しいようだ。
「そうなんですよ。今日は会社から呼び出されてまして」
保育園の書類には当然ながら職業を書く必要があったが、こうして送り迎えで出会う他の保護者に対し、直樹は自分の職業を告げていない。だから普通の保護者には、在宅ワークの日が多いのですが、出社する日もある職業、とだけ説明している。実際にはラフな格好のまま、気心のしれた道場や昵懇にしている個人に指導しに行くこともあるし、研究会に出る時もある。
タイトルも取ったし、そこそこ珍しい苗字だから気が付く人も多いのではないかな、そう思ったこともあるけれど、今のところ直樹の職業に気が付いている保護者はひとりだけ。たまたま奥さんの代理で迎えに来た将棋ファンのお父さんだけだ。それとも他に気が付いているけど気を使ってくれている人がいるのかもしれない。
なお、妻の教育方針で、海老沢家では標準語を使うことになっているので、直樹が息子に呼びかけるのも大阪弁のイントネーションが見え隠れする標準語だ。息子だって保育園の中では絶対大阪弁を使っているはずだから、無駄だと思うが家庭では口に出せない。
息子を送り届けた後、そのまま自転車を駅前の駐輪場に止めて、人でごった返した電車にしばらく乗って京橋で環状線に乗り換える。タイトル戦でもなければ、棋戦が始まるのは午前10時からだけれど、ギリギリに着くわけにはいかない。遅れでもしたら大変なので早めに出るのが職業棋士としての最低限のマナーだ。
若い連中はいいよな。(大阪市)福島に部屋を借りてる奴らなんて歩いて(関西)将棋会館に来れるからな。あいつら多分(関西将棋会館が高槻に)移転したら引っ越すだろうなあ。
ラッシュで混んでいる大阪環状線も大阪駅で人が一斉に降りて、直樹の前の席が空く。だがあと一駅だけなので空いた席に座る気にはならない。直樹は人が乗り込んでくる前に、自分の立っている場所を変えた。今日は平日だからこのパターンだが、土日祝だとテーマパークに行く人々で逆に混みだす場合もある。
福島駅で環状線を降りて、将棋会館に向かう。ここ一週間近く、直樹はタイトル戦でもないのに、今日の対局相手の事ばかり考えていた。だから彼女が出ていたドキュメンタリー番組をネットで金を払って見た。直樹は歩きながら、番組の中で彼女がちょうどこの辺りで話していたのを思い出した。
『ずばりどれくらいが目標ですか?』
〚指し分け(勝ち負け同数)ですね。そうすれば三段リーグでやっていけるんだ、という自信がつくと思います』
あれは三段リーグの初戦のことだから、ちょうど1年前だ。プロで32連勝する奴が、目標は指し分けだと? 直樹は頭を将棋の世界に切り替える。くっそ、今日は絶対勝ったるからな!
将棋会館に近づくと声を掛けられる。
「海老沢先生おはようございます!」
若手の棋士には軽く挨拶をする。
「おはようさん。今日もよろしく頼むわな」
別に彼と対局するわけではない。直樹はタイトルを取る前から、どの若手棋士に対してもそのように対応している。もちろん年配の棋士にはもっと丁寧な挨拶を交わす。
そして次はそのどちらでもない連中が来た。
「海老沢鋭王おはようございます」
「はい、おはようございます」
「今日は王偉戦の予選、2回戦ですが意気込みをお聞かせください」
普通ならたかが予選の2回戦で、会館に入る前からこんなことを聞かれたりしない。
「まあ、まだ予選なんでね。ぼちぼちいきますわ」
「今日の対戦相手はプロ入り以来32連勝中の天道四段ですが、どう見られますか?」
ほら来た。直樹は昨晩リビングでマスコミ対応の一人芝居をしていたが、それを見ている妻の冷たい視線を思い出した。
「32連勝にはもう驚嘆の一言しかありません。せやけど今日は予選の2回戦でしょ? 気楽に指すつもりですわ」
練習の成果もあり、内心はおくびにも出さずにすんだと思う。そう言えばつい先日「おくび」というのは「げっぷ」の事だと妻に聞いた。会館に入ってからも同じような質問をカメラを持った報道陣に何度もされるが、そのたびに同じように返す。これどれかは地上波でも流されるやろな、と直樹は思った。