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みんなで私の背中を推して  作者: 多手ててと
前編:高校生編
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69.海老沢直樹の憂鬱(2)

「これ、今日の午後に決勝あるんやろ? 相手誰なん?」


「同時対局ですからね、まだ決まってないんちゃいます? うん、まだですね」


おそらくは櫛木四段が上がって来るのだろう。櫛木四段はプロになってから、まだたった3敗しかしていない。でもその3敗すべて相手が天道四段だから、おそらく今回も負けるのだろうな、と七海は思う。


棋士にだって相性がある。多分櫛木四段にとって天道女王はどうしても越えたい壁なのだろうけれど、この前の清流戦の2連敗を見るとどうかと思う。


「まあ勝つと思っといた方がええやろな。はあ、せっかくタイトル取ったのになんでこんなしんどい思いせんなんあかんねん」


その海老沢鋭王の言葉に、棋士室は凍り付いた。海老沢先生が負けるかもしれないと思っている? タイトルホルダーのA級棋士が?


「えっ、海老沢さんより強いです? この子?」


いつも態度が大きいと言われる月影六段もおそるおそる声を掛けた。


「そんなわけないやろ? 俺の方が強いに決まっとるやんけ。いくら今スゴい勢いあるて言うても4回指したら3回は勝てる。でもな、次の一局は100%、絶対に勝たなあかんねん。絶対に勝たなあかん。負けは許されへん、ちゅうのはプロやったら誰が相手でもしんどいで」


現在、関西で唯一のタイトルホルダーである海老沢鋭王の言葉は重い。


「海老沢先生なら普通にやっても勝てると思いますけど」


七海は口を挟んだ。確かに天道女王は既にプロ棋士の中でも強い方だろう。そしてどんなに強い棋士でも、勝率を8割台に乗せるには調子の良さと運が揃わないと難しい。だから勝率7割5分というのは結構正しい見立てかもしれない。


それでも海老沢先生なら……この棋士室で戯れに海老沢先生と盤を挟んだ時の方が、天道女王と公式戦で対局した時よりも、はるかに重い重圧を受ける。


「勝てるやろはあかん。絶対に勝たなあかん。せやないとこの世界はめちゃめちゃになるで?」


海老沢の強い言葉に棋士室は静かになった。しばらく無言が続いた後、海老沢が再び口を開く。


「めっちゃ強い17歳の新人に負けるのはしゃあない。その子が初の女性棋士いうのも、まあ長い目で見たら将棋の歴史の流れなんやろな、とは思う。せやけどこの子、本業が女優やで?」


海老沢は普段からおしゃべりな方だ。だがいつもはもっと茶化したような話し方をする。こんな真剣に話し続けるのを七海が見たのは初めてだった。


「いやこの子、元々小学生の時から奨励会に入ってましたよ」


月影が思わず突っ込んだが、即座に海老沢鋭王に言い返される。


「そんなこと、さすがに知ってるわ。今言いたいのは普通の人の感じ方の話や。俺ら将棋の人間からみたら、子どもの時から将棋やってる可愛い子が、芸能界にも進出した、って思うやろ。せやけど普通の人の感じ方は違うで? この新聞かて見てみぃ。『女優で歌手の舞鶴千夜(本名天道静香)さん(17)、御厨竜帝・名人が持つ史上最長連勝記録を抜いて、単独一位となるか?』やで? 世間の人から見たらこの子は芸能人やねん。芸能人として抜群の知名度を棋士としてよりも先に持ってしもとるねん」


海老沢は語気荒く話を延々と続ける。


「もし俺がこの子相手にその4回に1回が出て負けたとするやろ? そら世間は盛り上がると思うわ。せやけどな、なあんや鋭王? とかいう仰々しい称号の持ち主も、10人しかおらんA級棋士いうたかてそんなもんなんや、って思う人は絶対に出て来るで?」

    

月影も海老沢先生の豹変具合には驚いたが、彼の言いたいことはわかる。


「この子が化物みたいに強いことは、これまでの棋譜みたらわかるし、さっきの対局見てもわかった。多分将棋を前から見て応援してくれてるファンの皆さんもわかってくれるやろなて思う。でもそれ普通の人、普段将棋なんか見いへんで、この連勝記録のニュースだけ見た、キタとかミナミとか歩いとるおっちゃんや姉ちゃんがわかってくれるて思うか? 人気女優様が片手間に趣味でやってる将棋に負けるような人が鋭王様なんやて、なんか将棋ってちょろい業界なんやな、そう思う人が出ておへんって言えるか? 俺は普通の人は絶対そう思うと思うで? そうなったら今のブームなんか一瞬で終わるで」


海老沢はまたここで口を閉ざした。再び沈黙が棋士室に降りる。


「せやからな、100%勝たんとあかんねん。俺がこの子の連勝を絶対に止めなあかんのや。先後どちらになっても勝てるだけの研究をこの1週間でしとかなあかん。将棋界の未来がかかっとるんやから、お前らも協力せえよ。今日は『トゥウェルブ』でも『やまそば』でもなんでも食いたいもん出前してええから、午後の対局はみんな必死で検討するんやで。ここまで言えばもうわかったやんな?」


私にもこの海老沢先生の遮二無二勝ちに行く気概があれば、あの化物に勝てたのだろうか、七海はもう考えても仕方が無いことを思った。


午後の四段戦の決勝戦は案の定、天道VS櫛木という黄金カードになった。


「これは見ごたえあるなあ。どっちも四段とは思えへんね」


この対局では継ぎ盤が活躍し検討も白熱した。


「このふたり、三段リーグからやと4対0なんやろ? そんなに差があるとは思えへんね。男の子も相当やるやん」


「俺の前に連勝止めてくれへんかな」


海老沢がぽつりと呟く。


だが、形勢はゆっくりとだが確実に天道四段に有利に傾いて行く。


「こいつらふたりとも他の棋戦でも上がって来るんやろな」


月影六段も呟いた。今シーズン、月影自身の調子は非常に良い。順位戦B2リーグではまだ一敗もしていない。玉将戦も挑戦者決定リーグに入って、初戦は落としたが、まだチャンスはある。そして棋奥戦は挑戦者決定トーナメントの3回戦に勝ち、ベスト4に進出している。ここから先は敗者復活もあるのでややこしいのだが、あと数回勝てば御厨の背中を掴むことができる立場にいる。だから今はとても大切な時期だ。それが判ってはいるが、この場から立ち去ることはできなかった。それは人付き合いという意味では無い。自分が強くなるために、そして将棋界を守るために、この部屋に留まって皆と検討を続けた。


天道四段は午後の対局で、櫛木四段に四段昇段後、四度よたび勝ち、連勝記録を32に伸ばした。


そして関西将棋会館で行われた検討は、そのうち天道四段の過去の棋譜も引っ張り出されたので、海老沢鋭王は全員分の夜の出前の金も気前よく出した。

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― 新着の感想 ―
[一言] 将棋普及のための広報戦略でしたが、本人が強すぎたために棋界が逆に舐められてしまうという逆効果。 手を抜くわけにもいかないし難しいですね。
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