68.海老沢直樹の憂鬱(1)
大阪市福島にある関西将棋会館、その3階には棋士室と言われる部屋がある。元々は記者室だったそうだが、今や関西在住の棋士たちの一部は自然にここに集まって、棋戦を見ながら検討をしたり、いきなり対局を始めたりもする。普段は若手棋士でにぎわうことが多いが、この日はここを拠点とする大物棋士も混じって、観戦しながら検討していた。
かつては東京の将棋会館の桂の間が同じような役目を果たしていたが、今では棋戦の増加に伴い対局に使われることが増え、かつてのように気軽に出入りできる雰囲気では無くなってしまった。
「あかんな、もう一方的やわ」
「月影ぇ、お前さんとこどうなってんの?」
海老沢鋭王に指名された月影六段は弟弟子のための弁明を始めた。
「いや、彼は普段は結構やれる子なんですって。この前の新人戦でも決勝進出を決めてますし。でも今日はほんまにマスコミが騒ぎすぎですやん。もうちょっと落ち着いて指せたらええ勝負ができたと思うんですけどね」
月影六段の内心は少々複雑だ。5月頃に「前期に昇段した新人ふたりがヤバいですから1回検討しません?」って声を掛けた時には誰も同調してくれなかったのに、今頃になって「お前が言い出しっぺやんな」と言われて呼び出されたからだ。まあ今からでもやらないよりはましだとは思うけど、これって完全に海老沢さんのためやん。
彼ら、関西所属の棋士が観戦しているのは、鋭王戦予選、四段戦の準決勝だ。途中までは継ぎ盤で指しながら検討していたが、途中からは一方的な展開になったので、継ぎ盤はもう使っていない。
この対局自体は東京の方の将棋会館で行われているが、棋士仲間の話では、現地では報道機関がひっきりなしに出入りしているという。普通なら四段戦の準決勝などに、これほどまで報道陣が集まることはない。なぜここまで報道陣が集まっているのか? それは月影六段の弟弟子の対局相手が天道静香四段であることだ。
天道四段は今月、10月の頭にあった対局、夕陽杯1次予選の決勝に勝って2次予選に駒を進めた。その勝利によってとうとうあの御厨竜帝・名人が持つアンブレイカブルレコード、プロデビュー以降30連勝についに並んだ。
初の女性棋士。人気絶頂の女優であり歌手でCM女王。ホントかウソか予備校のCMによると東大理Ⅲを受験するらしい。そんな人気者が不朽と思われた将棋の連勝記録に並んだことは、当然ながら大々的に報道された。より正確に言えば、記録に近づき始めた頃から加速度的に報道が増え始め、それが今や新聞や夕方のニュースで流れるぐらいには加熱する一方になっている。
そしてどうやらこの形勢では月影六段の哀れな弟弟子は、天道四段が打ち立てようとしている新記録の生贄になるのだろう。
「まあせやけど、たしかにこの子強いなあ。さっきの角とか、ようあんなんノータイムで打ち込みよるな」
「その割に今、時間を使てますね」
「いや、もうこれ詰みが見えてるやろ? 持ち時間は1時間ちゅうのに、確認するにしても時間使いすぎやろ。休憩してるんとちゃう?」
「そのあたりどうなの、七ちゃん?」
呼びかけられた今泉七海女流四冠は一瞬身体を震わせた。七海は今、元々持っていた、白銀、女流王偉、所沢秋桜に加え、先月聖麗戦のタイトルも加えて女流四冠となった。だが安心などまったくできない。所沢秋桜戦は来月、大沼女流王者という強敵の挑戦を受けることが決まっているし、大沼女流王者の力強い足音の後ろから、飛ぶ鳥のような勢いで迫って来る天道女王の羽ばたき音がけたたましく響いてくる。
「天道女王様は各女流棋戦の予選で、指導対局会を開催中ですよ。対戦した若い子によると、すごく気持ちよく指させてもらえるらしいです。みんな思い通りに指せました、っていい笑顔で私に教えてくれますねん。対局後の感想戦でも随分褒めてもらえたとか言って、喜んでる子が多いですね。もちろんみんな負けてます」
七海は口には出さなかったが、舞鶴千夜ちゃんの方のサインもらいました、などと堂々と言う子までいる始末だ。周りもいいなあとか、今度私も頼んでみよう、みたいな雰囲気で、もう対局相手という感じではない。
もちろんそれらは若い子の話で、女流でも本戦の常連クラスの棋士たちは七海と同じように別の意見があるだろうと思う。でも、今はタイトルを持ってないけど、強豪の宮之浦先生も、会うたびにサインねだってるって、嬉しそうに言ってたな。
「七ちゃんの時もそうなん?」
「そうですね。最初から少しゆっくり目で(時間を)使てましたね。で、詰み筋が見えたら長考ってパターンです。まあ若い子相手の時と先生方の中間いうところです」
舐められている。これまでの天道女王の指し方のパターンを考えると、七海は彼女の中で、松竹梅の竹に分類されているのだろう。
「あっ、流石に投げましたね」
「そらそやろな。うわっ。すぐマスコミが食いついてきよるな」
「まあこれで31連勝の新記録達成やからな」
「地上波にまでテロップ流れてるわ」
「これでまた将棋ブームが続きますやん。景気よおてええことですやん」
何でこの人たち他人事なんやろうな? 七海はそう思った。だが、この場には七海以上に危機感を持っている棋士がいた。