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みんなで私の背中を推して  作者: 多手ててと
前編:高校生編
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60.必勝弁当

くそがっ。なんで此奴こいつこんなに強いんねん。


今泉七海いまいずみななみ女流三冠は、相手の一手一手に押しつぶされるような恐怖感を感じる。非公式戦はともかくとして、公式戦でこれまで戦ってきたどの男性棋士よりも明らかに強い。


つい先日、竜帝戦と棋奥戦の本戦で忙しい合間だというのに無理を言って指してもらった月影六段よりも強いかもしれない。


将棋の勉強なんてほとんどしとらんのやろ? その綺麗な顔に、歌と演技、抜群の知名度とCM。それだけでええやんか。なんで将棋の世界にまでわざわざ入って来んねん。


七海は足掻あがく、どこかに逆転の一手がないのか、少しでもこの逆境を跳ね返すための足掛かりがないのかを、81マスの隅々(すみずみ)までをくまなく探す。そしてようやく探し続けて見つけた一手を、まるで添削でバツをつけられたかのように、簡単に跳ね返される。


こいつには勝てへん。多分先手を取れていたとしても勝てることはなかったと思ってまう。その事実が、女流で最強であるはずの女流三冠である我が身に痛い程突き刺さる。


なぜ向田さんがあっさりと3連敗したのか。なぜ当時ノリに乗っていた大沼女流王者が三手詰めを見逃したのか。それを七海は現在進行形で理解することができた。


真綿で首を絞めるようにと言う言葉がよくわかる。先手は十分なリードを持っているくせに、一気に攻めてこようとはしない。それは甘さではない。なにか別の要素、それは堅さかもしれないし、また別の何かによるものなのかもしれない。


七海の持ち時間が30分を切った時、天道女王が長考に入った。先ほどまで淡々と一定のリズムで指していたのに、それが止まった。その理由を七海は知っている。いや知っているつもりになっていた。


なぜなら天道女王には指し方に大きくふたつのパターンがあることを七海は知っている。ひとつは一手一手を丁寧に指すパターンだ。この女流王者の予選などでそうだった。常に最善手を指すのではなくて、不利になり過ぎない手を選んでいるとしか思えない。そしてここぞというところに急所を突いて来る。


対局した若い級位の子が言っていた。


「まるで指導対局みたいでした」


多分本当にそうなのだろう。向田さんとの番勝負でもそういう指し方だったけど、あれはまだこのパターンが確立する前だったのだろうと思う。


もう一つはノータイムでガンガン指してくるパターン。持ち時間の短い棋戦ではもちろん、順位戦のC2リーグでもこのパターンだ。そしてあるタイミングで長考に入る。そしてその長考の後に一気に止めを刺しに来る。今回はおそらくそちらのパターンだ。天道女王が、七海に止めを刺せる感触を得て、それを確認しているのだ。七海はそう思った。そして40分以上考えた後の一手は、予想した以上に一気に踏み込まれてしまった。


くそっ。これもう生き残る道あんのか? 七海も貴重な残り時間のほとんどを使って、なんとか生き残る術を探る。これはダメ、これもダメ、これは保留、これはダメ。攻めきることはできないから、数少ない選択肢の中から守る方法だけを考える。結局2つの保留の選択肢のどちらが良いかはわからなかったので、思い切って一方の手を指した。


女王が角成で七海の金を取った。この局面から大駒を切って来た。保留した選択肢はどちらも一緒だったらしい。この馬はすぐに落とすことができる。獲らないという選択肢はない。だがどうやって? 金で、銀で、それとも王で? 持ち時間を使い切って、七海は銀で取った。その銀は竜で取られた。これも金か王で取ることができる。だが……ここからは取るよりも王が上辺に逃げた方が長生きができる。具体的には最長で12手逃げることができる。だが、長生きできるだけで、決して勝つことができない。


七海は負けました、と先手に伝えた。そして、ありがとうございましたと挨拶を交わした。


その後少し感想戦をしたが、地力が違いすぎるということだけが判った。次はどこで彼女と会うのだろう。もしかしたらそろそろ予選が始まる、女流王偉の番勝負かもしれない。


とにかく研究するしかない。なんとしても強くなるしかない。七海はまだ終わった棋士になるわけにはいかない。自分も四段になって追いつく。それを目標に七海はまた精進を続けるしかない。しばらく前、女子オープンの本戦1回戦で別の若手女流棋士に負けた時は自分の失着に原因があった。今回の1回戦負けは実力かもしれない。それでも七海は勝たなければならない。


この時七海はひとつ勘違いをしていた。天道女王は長考に入る前に既に詰み筋を見つけていて、その確認に5分程時間をかけたが、残りの時間は、昨日までの映画撮影の歓びを噛みしめ、明後日の3枚のCDの同時発売のことを考えて、そして次の対局である4日後の棋神戦の1回戦、2回戦のことを考えていた。そういえば間合塾の模試もそろそろだなあ。そして適当に時間が消費されたことを確認してから、盤面と手順を再確認してから一気に止めを刺しにいった。



その日のうちに新幹線の中で、CDの発売の段どりについて、明石さんと話をした。もちろんグリーン車だ。そして新大阪駅で買った必勝弁当と、あとはパンを少々食べた。


東京に戻ったら、今もまだ頑張っているCDショップでサイン会を行う。前の写真集の時と同様、主催はそのCDショップなので、100枚の整理券の抽選はショップが行っている。聞いている限りでは整理券は既に完売済。3枚同時にリリースするが、日本語版と、ごった煮版(日本語曲、英語曲、インストルメンタルが混在しているもの)はいつもの日本語の千夜のサイン、英語版はローマ字の筆記体で千夜のサインをするので、先日まで英語のサインの練習が大変だった。なおサイン自体はスタッフが考えてくれているので、千夜がデザインしたわけでは無い。


あと、各アルバムから1曲ずつの3曲だけだけど。サイン会の後にはミニライブも行う。前の本屋のサイン会も良かったから、今回のCDショップも楽しみだ。明石さんとの軽い打ち合わせが終わって、そんなことを考えているうちに、千夜は新幹線の中で眠りに落ちた。

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