59.低予算映画
真脇小浦は磯部で小石を拾って海に投げる。それは、両親を失い、都会に行くはずが施設に入ることが決まった鬱々とした小浦の気分を表している。両親の葬式でも、田舎特有の閉鎖的な人間関係に辟易しているという理由もある。
『コウラ、何をやってるんだ』
こんな場所に相応しくない、老いた黒人男性が小浦の後ろに立っていた。
「ジジイ、うるさいよ」
小浦は日本語で毒づく。
『なぜ家に帰ってこないんだ?』
この黒人男性ジムは、小浦の亡き父の父親、つまり祖父である。小浦は舌打ちをすると老人にわざと軽くぶつかって去って行く。老人はよろめいて磯の岩に膝をつく。小浦はそれに見向きもしない。
「Cut! It’s good」
フランス人監督の声が飛ぶ。小浦改め千夜は現場に戻って来て、祖父役のアメリカ人男優に声を掛ける
『すいません。大丈夫でしたか?』
『もちろん問題ないよ。パッドを入れてるからね』
7月、夏休みが始まり、次の棋戦までの一週間程のわずかな期間で、千夜は映画撮影に北陸の海辺にある小さな町にやって来た。登場人物は小浦とジムのふたりだけで、エキストラすらいない。CGも一切使わない。助手というか監督の弟子たちが何人かいるけれど、監督自らがラフな脚本を書いてアドリブを交えながら自ら撮影も行う。当然複数方向から取る場合とかは弟子も撮影している。
流石に外国人だけだと辛いので、鎌プロから明石さん始め、何人か来ているけれど、きわめて小規模な撮影でお金が全然かかっていない。
この映画は主に監督の自費で撮影されている。だが、監督のアンリ=ルフェーブルも、ジム役の男優であるオリバー=ミラーも、これまで様々な映画賞を受賞してきた大物だ。
千夜はオファー時に大まかなストーリーを聞いた。日本の田舎町に住む女子高生の真脇小浦が両親を事故で失い、施設に入るのを待っているところに、父方の祖父を名乗るジムが現れる。そのふたりの不器用な交流と別れを描くという、まあありきたりなストーリーだ。
それが監督独特の手法で撮影が続いていく。天候が悪い日があれば、こういうシーンを撮るからここへ行こう、などと突然言われたりする。シーンによってはこういうシーンが撮りたいとだけ説明があって、セリフや表情などはすべて役者に丸投げされることも少なくない。だがリテイクが一度もないので、次々に撮影が進んで行く。
例えば祖父からギターを教わるシーンなども、一応は昔音楽をやっていたというオリバーよりも現役の千夜の方が上手いことがわかると、セリフがその場でアドリブで変えるし変わる。
そして映画なので、撮影はストーリー通りに進まない。千夜の中では今何のシーンを撮っているのかもよくわからなくなることがある。このシーンはどのシーンの次で、どのシーンの前だっけ? それでもリテイクは出ない。
なお千夜もオリバーも経費以外のギャラはもらっていない。収益のそれぞれ数十パーセントを頂ける契約になってはいるが、そもそも興行的な成功が見込める映画ではないから、お金で言えば千夜の取り分、というか鎌プロも持ち出しだろう。大物俳優のオリバーにとっては、わざわざ日本まで来ているから、千夜以上に損失が大きいだろう。
撮影期間はわずか4日。しかも初日は監督のアンリと、相方のオリバーと一日中話をしていただけで終わった。だから実質的な撮影期間は3日間だ。だがこの4日間、世界的な監督のもとでの、世界的な名優との共演は千夜にとって大きな刺激になった。
撮影は4日目の夕方まで続いた。他のメンバーは明日の朝東京まで飛行機で帰るが、千夜は明日の朝から、関西で対局がある。女流王者本戦の1回戦だ。アンリ、オリバー、そしてスタッフの人たちと抱き合って別れを告げてから、千夜は明石さんが運転する車に乗った。明日の相手は今泉女流三冠、強豪との初対戦特有の期待と不安を抱えて、千夜は助手席で眠りについた。
今泉七海女流三冠は覚悟を持って、この女流王者本戦1回戦に臨んでいた。正直組み合わせが決まった時には目の前が暗くなった。勝ち上がればぶつかることは覚悟していたが、よりによって初戦で天道静香女王とあたるとは。七海は自分のくじ運の悪さを噛みしめた。
普通にやったら勝てない事はもうわかっている。
七海はこれまで何度も棋戦に参加したことがある。女流枠と呼ばれるものだ。七海は女流王偉をここ3期持っているので、王偉戦の予選参加資格を持っているし、他の女流枠のある棋戦にもこれまでにすべて出場したことがある。具体的には竜帝戦、王者戦、棋神戦、棋奥戦などのタイトル戦の予選、そして夕陽杯、星雲戦、公共放送杯で、合計するとこれまで36戦も棋士と公式戦を戦っている。
そしてその勝ち数は半分に満たない16勝。だが参加当初は連敗続きだった成績が、ここ最近で見ると6割近い勝率まで上がっている。だから男性棋士もそこまで怖くない。良いとこどりで、10勝以上かつ6割5分以上の勝率を超えたら、棋士編入試験を受けることができるので、それが今の七海の最大の目標だった。
公式戦で棋士と対局するには、本来は女流枠で棋戦に参加するしかない。だがこの女流王者戦の本戦1回戦は当然公式戦だし、そして棋士が相手だ。七海にとっては強敵であると同時に、あちらから来てくれた機会でもあった。ここで勝つことができれば、編入試験の条件がぐっと近づく。
天道四段はもちろん強敵だ。むしろ七海が今まで対戦した中でも最強に近い方だろう。7月に入ってからも5連勝で、現在13勝無敗。先週は田丸四段をねじ伏せてチャレンジカップのベスト4に進出している。
もし今、編入試験を受ける資格が取れても今すぐ受ける者は誰もいないだろう。編入試験は最近四段になったばかりの棋士5人と対戦し、そこで3勝しなければならない。そこに天道静香ともうひとりの四段昇段後無敗の棋士がいる。この編入試験を受けるにしてもそのふたりが対戦リストから去ってからだと、誰もがそう思っているはずだ。
そんな天道静香に対し七海に勝ち目があるとすると、ひとつは時間だ。今回の女流王者本戦は持ち時間が3時間ある。
天道四段の13勝のうち、順位戦(持ち時間6時間)の2勝を除くとあとの11戦はいずれも天道女王の得意とする1時間以下の短期戦だ。その順位戦も失礼ながら相手は年齢あるいは別の理由で、新四段が勝つのが下馬評でわかっていた相手だ。
女流戦を含めても、女子オープン女王戦(持ち時間3時間)の3勝で、合わせて3時間以上の棋戦はわずかに5戦だけ。経験、特に時間の使い方、そして研究、これらを武器に七海は格上の相手に挑む。ここが決勝戦、いやタイトル戦だと思って七海は挑む。
七海が対局室に入った時には、既に天道女王は制服姿で下手に座っていた。目を閉じて精神を落ち着けているようだ。だが、七海の気配を感じたのだろう。彼女は静かに目を開けた。
「今泉女流三冠、本日はよろしくお願い致します」
「いえ、こちらこそよろしくお願いするわ」
しばらくして、駒を並べ始める。記録がかりが七海の歩を5枚とって振駒をする。
「と金が三枚ですので、天道静香女王の先手となります」
用意していた研究手が使えない。いきなり七海にとっては相当の不利になった。だが負けるわけにはいかない。七海はまだ動きのない盤面を見つめた。そうしてただ静かに時間が過ぎていく。
「時間になりましたのではじめてください」
七海と静香は互いに礼をすると、即座に静香が角道を開けた。