56.サイン会
6月中旬、舞鶴千夜の2冊目の写真集が発売された。残念なことに中身は殆ど静香の写真が使われている。そしてわざわざ発売日に『プレーン女子オープン 女王就位式・祝賀会 』を合わせた。当然就位式本番の写真は、写真集に入っていないが、わざわざ予行演習をやった時の写真が収められている。
そしてこの日、新聞の主要各紙には全面広告を左右両面に出すというメディア戦略を展開している。右側は滝山呉服店、プレーン化粧品、日本将棋連盟のコラボだ。「天道静香 本日 プレーン女子オープン 女王就位」という簡単なコピーに、将棋盤に向かって華麗な和服を着て、駒を持ち上げた状態の静香が全面に写っている。そして右端に静香が筆で自署したサインのコピーが入っている。
そして紙面の左側は、ルイッチ、間合塾、そして写真集を出版する文秋社のコラボだ。「舞鶴千夜 本日 2nd写真集 発売開始」という簡単なコピー。こちらはルイッチの女子大生風ファッションを身に着けた千夜が、塾の教室で、ノートを拡げている。そして静香のトレードマークである眼鏡を千夜が身に着けている。そしてもちろん左端に、舞鶴千夜のサインのコピー。
静香のスポンサー会社は他にもいろいろあるので、それらの会社も含めるという案もあったらしいが、結局はこの形になった。
左右の人物像や背景、配色が複数のデザイナーに考えられて作成されており、ポーズも対になっているのがわかる。またちらっと見ただけでは他人に見えるけど、少し見ると同一人物だというのがわかる。普段、自分の写真を見るのが嫌いな静香本人が見ても、これは格好良く見える。なかなかいいんじゃないかな?
この金がかかった宣伝は、ニュースやワイドショー、そしてもちろんネットメディアでも取り上げられた。結果、就位式とその祝賀会の視聴率もよかったそうだし、2nd写真集はもちろん、1st写真集までも当日朝からよく売れたと聞いた。滝山呉服店、プレーン化粧品、ルイッチ、間合塾、各スポンサー様の内外でも反響が大きかったと聞いたので、よかったよかった、と静香は胸を撫でおろした。なお後日ではあるが、広告業界の賞も受けたと聞いた。
この日は午前中に就位式・祝賀会を行って、そこで棋戦のメインスポンサーであるプレーン化粧品の長良川社長と共に皆さま方に挨拶をするなどのセレモニーをこなした後、その足で新宿の大きな本屋で、写真集のサイン会を行う。もちろん着物姿のままだ。買ってくれた写真集に対し、表紙あるいは指定するページに舞鶴千夜、あるいは天道静香、どちらかのサインを入れる。一冊にふたつのサインはNG。両方のサインが欲しければ、1st写真集も同時に買ってね、という鬼畜な商売になっている。
千夜は今まで何度か握手会やサイン会をしたことがあるが、静香がするのは初めてだ。また千夜も最近はファンクラブ会員向けのサイン会しかやっていない。外部主催、今回はこちらの書店が主催となる、サイン会は久しぶりだ。
2nd写真集は将棋系の写真が多いせいなのだろう、それとも筆ペンのサインが珍しいからかもしれない、天道静香のサインを頼む人が多かったことにまず驚いた。写真集だから筆ペンで書けるところは見返しぐらいしか無いけどね。そして1stと2冊買ってくれる人の方がむしろ多い。千夜がサインを描く横で明石さんが手伝ってくれる。
「これで2冊目になっちゃうのよね。でもやっぱり欲しくって2冊とも予約したの」
そう年配の女性に声をかけて頂けるのも嬉しい。
「ありがとうございます」
男性だけでなくて、若い女の子からご年配の方まで、老若男女のファンがいてくれていることを実感できるのは心強い。普段のサイン会もライブも回数が少ないので、ファンクラブ向けでチケットが売り切れる。おおよそ、若い男性のお客様が半分。そんなに若くない男性が残りの半分。最後の4分の1が若い女性という構成だ。
実際今回サインをした人の中には、ゴールデンウィークのライブも良かったです、と言ってくれる、千夜と変わらない年ごろの女性もいる。あのライブに来てくれたということは舞鶴千夜ファンクラブ会員ということだ。また、女王就位おめでとうございます、三段リーグの頃から応援していました、という将棋、あるいは両方でファンになってくれている人もいる。
これは事前に聞いていたんだけど、100枚の整理券付き写真集はあっという間に予約が締め切られたらしい。予約があまりないので50枚に減らしましたとか言われたら泣いちゃうもんね。
鎌プロでもあまり売れていない子のコンサートやサイン会では、主催者側がサクラを用意したり、場合によっては顔見知りのスタッフが並んでいることもあると聞く。今、そんなことを聞いたら、静香は絶対将棋界に逃げ込むと思う。
静香は上機嫌で100人、ほぼ160回ぐらい筆ペンとサインペンを使い分けてサインを書き終えた。よかったよかった。静香はサイン会を終え、スポンサー様である滝山呉服店から無料でレンタルしていた着物から、普段着に着替えると大きく伸びをした。
数日後、静香は初めての順位戦があった、相手はあまり実績のない中年棋士。さすがにC2だと最初に写真を撮られただけで、中継などは無かったので、遠慮なくノータイムで突っ走って圧力を加える。もちろん持ち時間が6時間もあるから、考える必要のある局面では時間を使った。当然だけど、相手はしばしば長考する。そんな時は、頭の中で作詞したり、ギターのイメトレをしたり、あるいは学校の宿題やテスト勉強をしている。
別に対局中に教科書やノートを見たわけじゃない。例えば数学だと大問の問いだけを見ておく。英作文とかでもいい。そして空き時間に考える、という勉強法を最近編み出した。これができるようになってからは時間の有効活用が進んだ。間合塾では冬になると本番の受験会場に行ったり、その合否通知を見たりする。あまり不甲斐ないと宣伝どころか、スポンサー様にご迷惑をおかけしてしまう。だから学業にはそれなりに力を入れなければいけない。
そして……今回は実行に移さなかったが、ひとつの画期的な持ち時間の使い方を思いついた。それは寝てしまうというものだ。調べてみると、実際にタイトル戦でも寝たことのある棋士はそれなりにいる。そうすれば体力の温存ではなく、むしろ回復が可能だ。だが……とりあえず今回は止めておいた。
まあC2だと対戦相手に恵まれればそれだけの余裕がある。だが次の対局はそういうわけにもいくまい。次回対局は、鋭王戦の予選、つまり段位戦だ。
段位戦は文字通り同じ段位のもの同士で予選を行う。静香の場合は四段。四段はプロの下っ端、最低ランク。だから一番楽なんでしょう? 知らない人ならそう思うかもしれない。だが少し調べてもらえればわかるはずだ。将棋のプロは170人程いて、それが四段から九段まで6つの段位に分かれている。
そのうち最も多いのは七段で50人ぐらい。逆に一番少ないのが四段でわずか15人。今は一旦社会人になってから厳しい編入試験を潜り抜けてプロになる人もいるが、ほぼ全員が10代か20代だ。つまり三段リーグかそれ以上の修羅場を潜り抜けて数年も経ってない人達だ。櫛木さんのような化物もいるし、その兄弟子で、前回池添九段邸で祝ってくれたうちのひとり、田丸さんもそうだ。
なお静香による個人的な池添門下の若手プロランキングは、野々原さん、櫛木さん、田丸さんの順である。池添さん(息子さんの方)を入れるなら、櫛木さんと田丸さんの間。これは棋力の順ではない。田丸さんは結構露骨に静香の身体を見てきたので、最低に位置づけられている。野々原さんも櫛木さんも紳士的だが、年齢を考慮して野々原さんを上にしている。櫛木さんはまだ子どもなので、これから嫌な成長をするかもしれない。
幸い持ち時間は1時間。棋戦の中はかなり時間が短い方だと言える。難敵揃いとは言え人数は少ない。これで初戦を落とすようだと、今後のタイトル戦も一局指して終わりになる可能性が高い。
これからどんどん棋戦で忙しくなるぞ。