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みんなで私の背中を推して  作者: 多手ててと
前編:高校生編
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54.天道・櫛木杯(その1)

5月下旬、静香は池添九段のお宅を訪ねた。若手棋士の研究会が開催されるのでそれに参加するためだ。最寄駅である千駄ヶ谷の改札口に、研究会に声をかけてくれた櫛木四段が迎えに来てくれていた。


「天道さん、久しぶりですね」


「櫛木さんも元気そうね」


静香は最近はあまり着なくなった兄のお古とダサ眼鏡。髪は三つ編みだが最近はそれなりに整えるようにしている。


「まだこうやって電車を使ってるんですね」


「通学も電車を使っているけど、声もかけられないわよ」


今の静香は大きく分けると4種類のファッションを使いこなしている。ひとつは晴れ着。この前まであった女王戦で着ていたが、果たして次着る機会がいつになるかはわからない。順当にいくと来年だろう。


ひとつは芸能のお仕事の時の衣装。撮影あるいは公開されているイベント等だ。この時はそのイベントで用意された服、それが無ければ『ルイッチ』から提供されているものを着る。この時だけ眼鏡をかけない。


ひとつは制服、通学は当然だが対局時もタイトル戦でもなければこの格好だ。といってもまだまだ対局数が少なく、たった3局しかしていない。


そして最後のひとつがこの普段着だ。


「僕はまだ公式戦を1戦しかしていません。だから素直に天道さんが羨ましいです」


「そう? お互い様だけど、この前も取材を受けてたじゃない。あれも立派な将棋のお仕事でしょ?」


「まあ、そうなんですけど。実績がほぼないので」


「まあそれもお互い様ね」


静香がそう言うと櫛木は何かを言おうとして止めた。何を言おうとしたかはわかる。問題はなぜそれを言わなかったかだ。


棋戦は毎年決まった時期に始まる。これまで静香は女流の公式戦を5戦したが、棋士としては櫛木と同じく清流戦の1戦だけだ。静香の相手は三段の奨励会員、櫛木は大沼女流王者と対局してそれぞれ勝っている。だからどちらもまだ四段以上のプロとはまだ戦っていない。


「でも来週からチャレンジカップも始まるし。櫛木さんならすぐに対局数も増えるでしょう」


静香はこの4月5月は殆ど芸能の仕事をしていた。6月発売の写真集はもう製本段階だし、無謀と思われた36曲のレコーディングも既に終わっている。鎌プロ営業部長の香織さん情報によると、上層部でははリリース日を早めることも検討されたそうだが、予定通りの7月リリースでいくらしい。まだ調整中だが、7月にはごく短期間による映画撮影の可能性もある。


またゴールデンウィークには、開催5日前にファンクラブ会員宛てに告知するという、ほぼゲリラライブを行う余裕すらあった。他のアーチストのために鎌プロが抑えた会場が、アーチストの突然の怪我でライブが中止になった。それをそのまま鎌プロの中で使い回すことにしたのだ。


そして今年度に入って、学校が無い日で初めてのオフが今日。だから次に静香がこのような研究会に参加できるのがいつになるかはわからない。今日参加するのは、定例で開かれている研究会ではなく、むしろ静香と櫛木の都合に合わせて開かれるものらしい。いわゆる非公式な顔合わせ的なものであり、将棋界の10代の棋士は全員、さらに20代前半の棋士も何人か来るという。池添九段門下が声を掛けて、合わせて7、8人の棋士が集まるというので楽しみだ。


「ここが師匠の家です。師匠と同年代の大物棋士から、脂がのった中堅どころ、そして若手棋士や奨励会員まで門下とか関係なく頻繁に出入りしているので、天道さんも今後出入り自由、というか大歓迎されると思いますよ」


棋士のたまり場になる理由はよくわかる。まず広い日本家屋であること。そして将棋会館にとても近い。当然静香の高校も近いから、先ほどの話が本当なら平日のオフの日はここに来ると言う選択肢もありだな、と静香は思った。


櫛木が呼び鈴を押し、それから簡単なやりとりをして、池添邸の中に入る。不用心なことに門に、そして玄関にも鍵がかかっていない。そして玄関は広いが特に出迎えなどは無かった。櫛木は靴を脱いでそのまま上がろうとするが、流石に静香は「お邪魔します」と大きな声を出してから、靴を脱いだ。


「この向こうに座敷があって、普段の検討などはここでしています」


まだ人が集まってないのだろう、随分静かだな、と思いながら静香は廊下を歩く。そして、ある部屋の前で櫛木が足を止めた。


「どうぞ」


あれ? 櫛木さんがふすまをあけるんじゃないの? そう思いながらも静香は襖を滑らせて開けた。


「天道女王就位、おめでとうございます」


中には7、8人どころか、20人近い人たちがいて、その人たちが一斉に声をだした。みんな棋士の人たちだ。クラッカーも鳴らされる。


静香は大きな座敷に足を踏み入れる。


「ありがとうございます」


ボイトレで鍛えた大きな声を張り上げて、深々とお辞儀をした。


若手ばかりの中に、一人の老人とその奥様と思われる老婦人がいた。老人の方には奨励会の最終日に見覚えがある。池添九段その人だ。静香はまず池添九段に近づいて、改めて礼を言った。


「あまり縁もないはずの私のために、このような場を用意して頂いてありがとうございます」


頭を下げる静香に池添九段が優しく答える。


「いや、うちの弟子や他の若手棋士が、天道さんが来るのをとても楽しみにしてたんだよ。私は場を提供するだけで何もやってないよ」


それでもありがとうございます。静香は池添九段にそう言った。


「奥様も本当にありがとうございます」


「いいえ。私も何もやってないわよ。昼食も出前を取るみたいだし」


静香はもう一度奥様にも礼を言ってから振り向いた。


「皆さま、今日は研究会に誘って頂いただけでなく、このようにお祝いまで頂いて、大変ありがとうございます。天道静香四段です。これからどうぞよろしくお願いします」


そういうと、また大きな拍手が起きた。自分が池添九段や、若手棋士たちに迎え入れられたのがとても嬉しかった。

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