52.観戦者東西(その3)
「向田女王の一手一手はとても丁寧で、悪手はひとつもないのにな。なんで形勢傾いたんやろうな」
七海の言葉に、若い女流棋士は誰も答えることができない。月影六段ですらしばらく黙ってから、ようやく口を開いた。
「やっぱり向田さんもここまで深くは研究してなかったんやろうな。まあそら時間的にもしゃあないやろ」
七海がそれに返す。
「向田女王に甘い手なんかあったっけ?」
「あったで。決して悪手ちゅうわけではないけど、俺やったらこっちかな、っていうのはいくつかあった。まあ俺のが正解とは限らんけど……ここ数手で随分差が開いたなあ。もうこれ粘るのは粘れるやろうけど、ひっくり返すのは結構難しいやろ? そら三段リーグ一期抜けやから、チャンスは見逃せへんわな」
七海は改めて盤面を見つめた。
「そこまで差ぁあるかぁ? いや、確かにだいぶ後手持ちになったけど……王手かかった言うてもなんも紐ついてないから払ったらいいだけやん。向田女王の飛車も角もいつでも相手陣に突っ込める状態で、駒台にはもう一枚角がある。後手玉が堅い言うても、向田女王の弾込めもそれなりにされてるやん。そして天道四段の飛車は初手からまったく動いてない。今、評価値いくつ?」
七海の声に若手女流棋士が、今は -971 ですと返した。
七海が見る盤面からは、それほどまでに差が付いているように感じない。これが六段と女流三冠の違いなのかと、七海は思い知らされてしまう。
その後、6六金打で二度目の王手、4七王と逃げると、5五桂打と後手の王手が続くが、71手目に7一銀打で向田女王が天道四段の初手から動いていない飛車をいじめに行く。9二飛、8四桂打、の後天道四段の飛車は5二に動き、4ニの王と並んだ。これで、天道四段の飛車はほぼ身動きが取れなくなった。そして8一角打と向田女王の反撃が続く。
「でもこれ、天道さんの王には全然届かないですね」
「ここまできたら選択肢も増えてるけど……この子表情は豊かだけど、ほんと指すペースは定跡出てから後は殆ど変わらんなあ」
池添九段門下の若手棋士たちは勝手に論評する。
この四人の上下関係は複雑だ。池添三段が師匠の実子ということもあり、師匠に最初に弟子入りしているし年齢も一番上。でもまだ奨励会員だ。年齢的には田丸四段が19歳だが、17歳の野々原五段が先に弟子入りしている。櫛木四段の弟子入りがこの中では一番遅い。なお今現在、10代の棋士はたった4人しかいないが、そのうちの3人がこの場にいる。だから池添九段門下はこれから大勢力になると目されている。
「この前放送されていた『熱血颱風』で言ってましたけど、とにかく早く指して相手の考えている時間は何も考えないようにして体力温存しているって言ってましたよ」
田丸四段がそう言うと、野々原五段も返す。
「それは男性との長期戦を想定した場合だろ? 今回は総合的な棋力もそうだし、体力的にも天道四段の方が上。そして持ち時間は3時間だから、待ち時間も考えて指しているんじゃないか?」
その後しばらく攻め合いが続くが88手目後手3七銀打でまた王手。先手は角を犠牲にして、後手の攻めを止めるがもうこの場にいる4人には終局が見えた。
角金と飛車の交換をして、先手が駒得をするが、早速その飛車で王手金をされると王を守って飛車を追い払うしかない。金を取り返された上に竜ができる。この105手目で向田女王は時間を使い切り秒読みに入り、時間ギリギリで自陣に銀を加え守りを固めた。
「でもこれ、すぐに潰されますね」
「だよなあ」
そのまま笑顔を浮かべた天道四段も持ち時間を使い切るが、それでも一方的に攻め続け、双方の駒が盤上から消え互いの駒台が混雑する。
132手目で3七竜で必至となる。後は思い出王手をかけるしかないが、それも続くはずがない。133手目2二金打で王手、驚くべきことにこれが先手の初王手だ。当然ながら即座に同金で払われたところで向田女王が頭を下げた。
「いやあ三段リーグこいつと当たらないで良かった。当たってたら次点が取れなかったぜ。櫛木が負けたのも納得した」
「結局天道さんも秒読みまで行きましたか。三段リーグとは指し方を変えてきましたね」
「この子いろんなトーナメントで上がって来るよな。いやだなあ」
「俺は結構楽しみにしてますよ」
池添三段、櫛木四段、野々原五段のネガティブな発言に対して、田丸四段のポジティブな声に他の3人が振り向く。
「だって対局中もおっさんの顔を見てるより、若くて綺麗な女の子の顔を見ている方が、絶対にいいじゃないですか。そして女優ですよ。女優。上手く行けば、芸能人と付き合ったりできるかもしれないんですよ?」
田丸四段は3人の兄弟弟子たちに、生暖かい目で見られた。
「いやこの子、御厨先生とかとテレビで普通に話してたよ? お前にチャンスあると思う?」
「いや、考えてみてくださいよ。学校でもクラスメイトと付き合ってたりしてた奴ら多かったでしょ? 俺ら今後この子としょっちゅう顔合わせるんですよ。なにが起こるかわからないじゃないですか」
「えげつないもん見せられたなあ」
終局までを見届けた七海は疲れた声を出した。昨季までは、今泉女流三冠、大沼女流王者、そして向田女王が、女流のトップ3だと言われていた。その一角がいとも簡単に蹴散らされるところを目の当たりにしたからだ。よほどのことがないと第4局があるとは思えない。
「天道四段と当たる組み合わせになったら、私なんかもう運が悪いと思うしかないですね」
「5月に女流王者の予選とか始まるじゃないですか。トーナメントで当たったらもう終わりですね」
「秋からだけど、白銀戦のD級、平手でやるのはおかしいんじゃないですか? 今は大沼女流王者が無双してますけど、来期は天道四段がそれ以上のことをやってきますよね。私2枚落ちでも軽く負けちゃいますよ」
口々に話す女流棋士たちの泣き言を、月影六段は黙って聞いていた。あの女に勝つにはどうすればいいか、これから考えないといけない。交流のある関西若手に声を掛けて、一度研究会をやろう。天道四段、そしてそれと同成績だった中学2年生の櫛木四段。そのふたりはすぐに上がって来るだろう。それに対抗するには、頭数をそろえた方が早いと思う。
今、八大タイトルはすべて関東所属の棋士が持っている。ここらで関西の意地を見せておかないといけない。
これって私と指した一斉予選の時と同じだよね。
筑波紅葉女流1級は中継を見終わってそう思った。あの時も今回のように自然に困った顔をしていた。そして時間の使い方もゆっくりだった。でも……あれらはすべて演技だった。天道四段は一流のエンターテイナーだ。本来ならもっと無表情に、もっと速く彼女のペースで指し続けることができたはずだ。
「持ち時間が無くなってからは結構焦ってしまいました」
インタビューを聞きながら、デビュー戦、女流のタイトルマッチで最後まで初挑戦の若手女流棋士を演じ切った天道四段は、多分男性相手にも勝ち続けるに違いない。いや、流石に無理だろうか。紅葉は悶々と考えながら、画面を消した。
筑波紅葉は11月の女流王偉戦の予選で2勝し決勝進出し、そこで敗れたので1級に昇級しています。