51.観戦者東西(その2)
「さっきから先手は選択肢が広いけど、後手の正解はほぼ一択状態を強いられてるな。これは女王の戦略が上手くいってるってことなんだろうけど、天道四段がきっちり正解を指してくるから、これ逆に女王が辛いね」
天道四段はずっと困り顔で指し続けている。それは向田女王にずっと主導権があるからだけど、天道四段は間違えずにそれに対応している。
「これじゃ全然天道四段の指し方がわからないな」
「天道さんは早指しと聞いていたけど、全然そんなことはないね。相手の向田女王は逆に選択肢がある分、迷いが多いから時間を使うのはわかるけど、後手はほぼ一択なのに両者とも持ち時間はほぼ一緒だな。どっちかというと、慎重派なんじゃない?」
池添九段門下の棋士たちはそれぞれ好き勝手に女流タイトル戦を見ていた。
「あっ、今の同銀はちょっと緩いですね。俺だったら次は6四角打ちが第一感ですけど、天道四段はどう返しますかね。ソフトでどうなってる?」
「田丸兄さんの言うように6四角打ちが最善手みたいですね。まだ、そんなに深くまで計算できてませんけど」
櫛木四段は先ほどからずっと訝し気な顔だ。
「ちょっと天道さんの表情も、指し方も違和感あるんですよね。池添兄さんはどうですか?」
「俺は対戦してないけど、田部とかに聞いてたのと違うな。もっと無表情で、がんがんノータイムで指してくるって聞いた」
「デビュー戦、それもタイトル戦で緊張してるんじゃない? あっやっぱり6四角だ。まあそれなりに考えてたし、間違えないか」
野々原五段は自分でそう結論づけた。
「この子綺麗な顔してるけど怖いなあ、櫛木だけでも大変なのに。相手の研究手に対して、最初からノーミスじゃん。こんなのと清流戦とか新人戦とかやんのか。野々原さんは清流戦出なくていいから気が楽ですよね」
田丸四段は5月から始まる清流戦に出場するが、五段の野々原には参加資格がない。
「でもチャレンジカップで当たるかもしれない。普通の棋戦でも強そうだけど、持ち時間20分みたいな短期戦だと、櫛木よりもやべー相手だって聞いてたんだけどね……。な、櫛木? でもこの中継見てると本当に困っているみたいだし、早指しじゃなくて、もっと慎重なタイプだと思うよ」
ただでさえ、目の前にいる櫛木が上がって来たのに、他にも嫌な奴が上がって来たな、野々原五段はそう思った。
44手目に後手が6六歩を指したところで、お昼休憩に入った。ここまでの消費時間は、先手の向田女王が51分、それに対し後手の天道四段は1時間9分。若干後手の方が時間かかっている。
「両者ともとても丁寧に指してはるな。まだ中盤に入ったばっかりやし、ほぼ互角やろ?」
今泉七海女流三冠の言葉に、若い女流棋士は誰も答えることができない。月影六段ですら黙ったままだ。
「しゃあない、うちらも昼ごはんにしよか」
そこでようやく月影六段が口を開いた。
「やっぱり向田さんの戦略なんやろな。相手の手の選択肢を狭めて、自分の研究通りの展開に持ち込む、それは方法論として全然間違ってないんだけど、相手も間違えないからな」
今泉七海がそれに返す。
「そやね、向田女王の研究手にきっちり対応しとるね。四段やったら当たり前か」
「まあまだ序盤やからどうにでもなるやろ。今、評価値いくつ?」
月影六段の声に若手女流棋士がノートパソコンを見ながら返す。
「このノートだと -64 ですね」
評価値が +1000 を超えると先手がかなり有利だとコンピュータが判断したということになる。 -64 だと互角と言って良い範囲の差だ。
「まあもうそろそろ攻め合いになるやろ? 天道四段の評価はそっからかなあ、まあとにかく飯いこか? 若い子らには俺がおごったるで」
ありがとうございます。という関西女流棋士たちの声が揃う。
「ありがとうございます」
ワンテンポ遅れて礼を言った七海の言葉を月影六段は無視した。
「若い子らにはおごったるからな」
七海は月影を軽く叩いた。
池添九段門下の4人は昼休みに街に出ると、チェーン店のカレーを一気食いして、再び元の部屋に戻ってきた。
「ほら、対局者のふたりとも名物のカレーだぞ。俺らも食べれるようにならないとな」
田丸四段が息を切らしながら、更新された中継ブログを見てそう言う。この4人の中で一番年下で体力のない櫛木四段は吐きそうになるのを必死で抑えていた。
昼休みが終わり棋戦再開直後、46手目に駒台にあった角を6四に打つ際に、天道四段の顔が明るくなった。
「女王の休み明け直後の45手目がちょっと温い手だったね。考えすぎたんだろうなあ。それにしてもこの子、感情がすぐ顔に出るな」
「わかりやすいほうがいいじゃないですか」
兄弟子二人の会話に櫛木四段と池添三段は顔を見合わせる。池添は天道四段と指したことがない。だが、三段仲間からの情報は得ていた。そして櫛木四段は直接対決している。
「ちょっと天道さん変ですね。指し方も表情も」
「うん。俺も聞いてたのと全然違う。最初はデビュー戦のプレッシャーかと思ってましたけど、この子、三段リーグと別人みたいな指し方してますよ」
「そうか? 全然おかしな感じはしないけどな。すごく素直に指してる。それが的確だから強いけど」
「実際今の手で有利になったんじゃない? えと、評価値は -96 か。まだそれほどでもないか」
しかしここからどんどん駒がぶつかり始めるはずだ。51手目に女王が銀を進め、すぐ前の角をいじめに行く。天道四段は6四角と一歩下がった。ここでまた天道四段が笑顔になる。
「今ので結構後手持ちになったんじゃない?」
「悪い手じゃないですけどね。僕も女王の手は違うと思いました」
ここから手が進み62手、5七銀成でこの対局初の王手がかかった。