49.向田雪
向田雪、28歳 職業は女流棋士。女流四段。女流順位戦の制度ができてからは常にA級に在籍。タイトルは通算5期でそのうちの3期が女子オープンの女王で、昨年は大先輩である岩城女流名人の挑戦を跳ね返して防衛している。挑戦者は当たり前だけど例年その時一番勢いのある女流棋士だ。それにしても今年は痺れる相手が勝ち上がって来た。天道静香四段。雪と同じ女流四段ではなくて、『普通の』棋士の四段だ。
昨年度のタイトル戦、芸名の舞鶴千夜として司会をしてくれたのは、連盟、というより、棋戦のスポンサーが自分のところのキャンペーンガールを派遣してくれたことに単純に喜んだ。
その後一斉予選への参加を表明した時は冗談かと思った。いくら相手が若手の人気芸能人でもやりすぎだろうと思った。スポンサーがねじ込んだにしても、それを許可した連盟理事たちの気がおかしくなったのかと思ったほどだ。だが、一斉予選を勝ち上がる際の手つきや不審な挙動はともかく、手筋はしっかりしたものだった。
いずれも圧倒的な勝利を重ねて、本戦トーナメントに出場が決まった時も信じられなかった。誰かが遠隔操作していた、と聞いても驚かなかっただろう。だが本戦トーナメント進出が決まった時に、連盟の常任理事であり、女流会長も務める岩城女流名人からその正体を聞いた。
その時には驚きと同時にどこか安堵してしまったことを覚えている。
女流棋士は将棋のプロだ。素人の芸能人には絶対に負けるわけにはいかない。だからこそ雪は、舞鶴千夜が奨励会二段だと聞いて安堵した。安堵してしまった。言い方が悪いが、彼女が不気味な強さを持つインベーダーではなくて、自分たちの仲間、将棋サークルの一員であり、その強さのからくりが見えたと思った。仮に彼女が勝ち上がって来たとしても奨励会二段に負けることは決して恥ではないし、それに負けるとは限らない。
実際雪は、奨励会三段に在籍中だった大沼女流王者に勝ったことがある。もちろん負けたこともある。
だが今、雪よりも前に扉の前で待っている少女は既に四段だ。雪が足を踏み入れることすらできなかった地獄を、抜群の成績で一瞬で駆け抜け、歴史を変えた存在だ。
雪よりも頭ひとつ以上高い長身。特に脚の長さが際立つ。女優だから当たり前だけど、小さくて怖いぐらいに整った顔立ち。雪だってプレーン化粧品のプロがかなり丁寧にメイクをしてくれた。挑戦者としてこの棋戦に挑んだ時から、いつもの自分から変身できるこの棋戦が好きだった。でもそんなのはしょせん小細工だ。多分プレーン化粧品のスタッフは彼女のメイクは簡単に済ませ、雪のメイクにより時間をかけたと思う。化粧品会社のキャンペーンガールに選ばれるような女優は、最小限の化粧で最大限の効果を出すのだ。
そして髪飾りから靴まで、身に着けたものの、ひとつひとつまであの『ルイッチ』のコーディネーターがしつらえた衣装がバッチリ決まっている。仮に雪が同じようにコーディネートしてもらっても、絶対衣装負けするに決まっている。そんな高校生離れした外見の少女が、満面の笑みで雪に挨拶をしてきた。
「向田女王、今日からまたよろしくお願い致します」
「ええ、こちらこそお手柔らかにね」
雪は自分でもわかるぐらい声が震えていた。私が女王なのに。私のホームゲームのはずなのに。盤を挟んで座るどころか、前夜祭の開幕を告げる扉が開く前から雪は既に圧倒されていた。そしてこの扉が開いたら、どちらが主役かは誰の目にも明らかになるだろう。それは覚悟している。そして盤面を挟んで見た時に、自分は彼女に怖気つかずに済むだろうか。雪にはその自信がなかった。
前夜祭は予想通り完全にアウェイだった。そもそも相手は棋戦スポンサーのキャンペーンガールなのだから当たり前だ。誰もが雪ではなくて、挑戦者と話をしたがった。長良川社長はじめお偉方たちも気分よさげに話していた。
雪と静香の違いは身長でも、顔でも、スタイルでも、衣装でも、会話力でもない。一言で言うと存在感が全然違う。
この完全アウェイの前夜祭において、唯一雪の味方になってくれたのは、皮肉にも対戦相手の天道四段だった。彼女は巧みに話題をコントロールして、雪に発言の機会を回してくれる。天道四段のおかげで惨めにならずに前夜祭を終わらせることができた。
自分にあてがわれた部屋に戻り、雪は一人前夜祭の反省を行った。女流棋士はエンターテイナーなのだから、エンタメのプロである彼女から素直に学ぶべきだ。それは絶対に今後の雪の力になるはずだ。そう自分に銘じて眠りに着いた。
翌日、滝山呉服店のスタッフに手伝ってもらって着物を着る。この5番勝負でこの1戦目だけは両者とも着物を持ち込んでいる。雪のものは女王のタイトルを取った時に思いきって購入した一張羅だ。当然滝山呉服店から購入している。自分の名前通り雪をモチーフにした、白を基調にした和服だ。
雪は対局室に向かった。検分は昨日済ませていてなんの問題もないはずだ。対局室には既に桜色の着物を纏った天道四段がいた。マスコミが何社も取り囲む中で、目を閉じたままの彼女からは、昨晩の華々しさはなく、そこには静謐とした空気と凛とした美しさがあった。
雪は静かに将棋盤を挟んで彼女の前、上座に座った。大丈夫。いつもの私だ。いつものように指すことができるはずだ。雪は駒袋から駒を取り出すと王将を所定の位置に置いた。彼女が玉将を対応する位置に置く。ふたりが大橋流で駒を並べ終わると、棋戦スポンサーである、プレーン化粧品の長良川社長が雪の側から歩を5枚取った。そして普通より激しく長めにシェイクすると駒を落とした。5枚とも歩。つまりこの1局目と3局目が雪の先手から始まる。幸先がよいと思った。
歩が元の場所に戻される。心地よい静かな時間が流れる。雪はまた自分のどこにも問題が無いことを確認した。むしろ緊張が足りないぐらいだ。雪は再び目を閉じた。ただ静かに時が流れて行くのを感じる。
「時間になりました。始めてください」
よろしくお願いします、の声が綺麗に重なった。