47.芸能月間
師匠の大江九段の家を出て電車に乗った後、静香は慌てて頂いた和服を確認した。箱に滝山呉服店の名を見つけて静香は胸を撫でおろした。これなら事前に事務局に伝えておけばよいだろう。女王戦は両対局者の衣装の組み合わせなども、滝山呉服店がコーディネートするからだ。
静香は改めて心の中で師匠に感謝した。だがこの3月、終了式までは学校には行く。だがオフは平日の放課後を含めても、今日が最初で最後だ。来年度はCMが元々増える予定だったが、さらに追加されたのでそれらの撮影がある。例えば大手楽器メーカーの『破魔矢』。これまでもライブなどで楽器の提供は受けていたが、新年度からはCMにも出る。
そして衣装やバッグの世界的な超高級ブランド『ルイッチ』。これは若い女性向けの比較的安価なシリーズのCMが世界中で流れる。そして『ルイッチ』ブランドの服やアクセサリーが2年間静香に提供されるので、それを仕事の際に身に着けること自体が仕事となる。
ただし両立し得ない場合は除く。両立し得ないというのは、他にスポンサーがついている場合で、ドラマや映画などで他の衣料メーカーが提供する契約になっている場合だ。加えて言うなら、和服は同じくスポンサーである滝山呉服店のものを身に着ける。対局もタイトル戦以外は、高校生の間は制服なのでそれも除外。2年目以降は別途検討事項となっている。
またCMの中には、早いものは既に2月の終り頃からお茶の間に流れているものもある。間合塾という大手予備校は今年度の終りから来年度にかけて、千夜をイメージキャラクターに大々的なキャンペーンを始めている。4月以降は月替わりかそれ以上の頻度でCMを変えて行き、受験生である千夜を1年にわたって追うという半ばドキュメンタリー風のキャンペーンになっている。入学するかどうかはともかく受験することは確定。これで受験全滅したらどうするんだろ。
他にも話題の人ということで、多くのトーク番組やバラエティに呼ばれているし、本職ではドラマのゲスト出演。映画では、主演ではないし出番も短いけれど重要な役。映画と言えばハリウッドの大物監督からもオファーが来たという。でも渡米している時間はどう考えてもないので、明石さんが泣く泣く断ったと聞いた。さらには恋愛リアリティ番組へのオファーもあったそうだが、そちらは即決で断ってくれたそうだ。
そして6月に発売することが正式に決まった写真集第2弾の撮影。そして夏に発売するアルバムのレコーディング、そして2日だけしかできないけどライブ。それらを3月にこなしていかないといけない。プロ棋士、しかも女流も兼ねるということで、ますます忙しくなる静香に合わせた日程を、みんながサポートしてくれているのだ。その期待に応えないわけにはいかない。
そんな芸能づくしの中、一番嬉しかったのはバラエティ番組で、御厨竜帝・名人を含むタイトルホルダーの皆さまと共演できたことだ。いわゆる将棋バラエティ、敗色濃厚な場面から、芸能人が有利な方を持ち、将棋のプロが鮮やかに逆転して見せるという番組だ。選ばれる芸能人も将棋好きで強い人が多いので、局面によっては勝ち切ることもあるという結構ガチな構成になっている。
「はい、では最後の対局です。いよいよ御厨竜帝・名人にご登場いただきます」
これは観客を入れた公開録画番組。将棋の世界の頂点に君臨する、御厨陽翔が待機していた席から舞台に降りると、会場全体から大きな拍手が浴びせられる。
「そして御厨先生に逆転して頂く局面はこちらです」
その盤面が出されると先ほど対局を終え、席に戻った早蕨鋭王から突っ込みが入る。
「この局面は、先ほどの私のとは違ってまだ絶対絶命ではないですよね? 御厨先生を勝たせようとする番組の意図が感じられます」
「そうだよ、御厨君ならあっさり勝っちゃうんじゃないの?」
3人のタイトルホルダーの中では、一番年上の国分王者も早蕨鋭王の隣で大きな声を出す。というかこの3人は御厨先生が26歳だが、他のふたりは40代前半であまり変わらない。逆に言うと今は30代のタイトルホルダーがいないという珍現象が起きている。
「ということですが、御厨先生、いかがですか?」
司会者の声に御厨は少し考える。
「確かに先ほどの早蕨先生の盤面ほどは追いつめられてないですけど、それでもここから勝つのはそれなりに難しい状況ですね」
御厨先生は先日玉将戦を防衛し、4月になれば名人戦の番勝負がある。早蕨先生もやはり鋭王の番勝負を控えている。こんな大変な時でも普及のために身を惜しまないのはさすがだと思う。ひとりだけ別の楽屋にいて、先ほど舞台裏に移動して来た千夜はそう思う。
「しかし相手は芸能人です。ただ芸能人と言っても御厨先生の相手に相応しい、芸能界最強の指し手に登場して頂きます。どうぞ」
ここで幕が開き千夜が満を持して登場する。先ほど御厨先生が壇上から舞台に降りてきた時よりも声援の声が高く、「えーっ」という驚きの声も大きい。
「ちょっと」
御厨先生が大きな声を出す。
「天道さんでしょう? プロじゃないですか。この状況からプロ相手に勝てるわけないですよ」
さすがの御厨先生も静香のことは知ってくれていたようだ。
「いや、私は女優兼ミュージシャンの舞鶴千夜で、将棋はアマチュアですよ」
「4月に四段になりますし、舞鶴千夜の名前で女子オープンで勝ち上がりましたよね?」
4月に番勝負があるのは千夜も一緒だ。そこに司会者が強引に割って入る。
「それでは舞鶴さんから見てこの局面はどうでしょう?」
千夜は少し考える。
「そうですね。持ち時間も一手30秒と短いので、流石に御厨竜帝・名人相手でも、この局面からなら私でもいい勝負ができると思います」
いや絶対勝てないですよね、これ。という御厨先生の声を遮るように、司会者が宣言する。
「それでは御厨先生の先手で始めてください」
対局は大きすぎるハンデを活かして千夜が勝った。だが、流石は御厨先生ならではの一手もあり、それなりに際どかったと思う。
番組終了後、千夜は御厨先生始め、月が替われば同僚というにはおこがましい、偉大なる先生方にご挨拶した。まさに将棋界の宝というべき錚々たる面々に静香は囲まれた。
「本番中は言えなかったけど、昇段おめでとう」
将棋界の頂点に立つタイトルホルダー全員から祝ってもらえるのはとても嬉しい。
「ありがとうございます。私から見たら遥か雲の上の皆さまに祝って頂いてとても嬉しいです。先ほどは色々と生意気な発言をして申し訳ありませんでした」
千夜は深く頭を下げる。
「いやいや、こうしたテレビはじめエンタメ業界では、我々が束になっても、天道さんひとりにまったく敵わないですよ。奨励会も16勝でしょ? あっという間に私たちと対戦するんじゃないかな」
この中では唯一以前にお会いしたことがあり、棋士会長でもある早蕨先生からも持ち上げられる。
「それに収録が始まる前から、絶対最後に天道さんが出て来るよね、って僕らの間でも話してたよ。この番組に呼ばれないわけがないって」
どうやら千夜の登場は、国分先生の読み筋の中だったらしい。
「そう、元々予想してたけど、国分先生、早蕨先生よりも甘い局面を見た時に確信したね。これは天道さん以外ありえないなって」
最後にまた御厨大先生からのお言葉を賜る。本当にありがとうございました。その後千夜は芸能界の皆さま方にも挨拶して楽屋を去った。今後こういった番組が増えてくれればいいのに。いや自分が増やしていける立場にならないといけない。そう千夜は思った。