46.恩返し
3月、静香は久しぶりに師匠の大江九段の御自宅を訪ねた。最近、外ではたびたび顔を会わせているが、こうやってご自宅を訪問するのは、芸能界に入る時に一度相談した時に訪れた時以来だ。師匠は3月に入ってすぐにあった棋奥戦の予選トーナメントで敗退し既に引退していた。
「いやあ、まさか静香がこんなに強くなるとは思っていなかったな」
静香は師匠の現役時代、平手で勝ったことはただの一度も無い。最後に対局したのも芸能界に入る時のこと。あの時も静香は師匠に敗れた。だが、今こうやって思い出話をしながら指していると、この2年間の間に自分の方が強くなったことがはっきりとわかる。
「いえ、あと1年早く昇段できていれば師匠に恩返しができたかもしれないと思います。まあ実際のところ、今期昇段できたのも夢のような話で、1年前には到底無理でしたけど」
この世界では、弟子が師匠に勝つことを恩返しと言う。大江九段は合わせて7人の弟子を取り、6人はプロになれずにこの世界を去ったが、最後の弟子であり唯一の女性である天道静香が、師匠と入れ替わるような形でプロ入りを果たすことが決まっている。
「いつも言ってることだけど、あの時続けてくれてよかったよ。私の名前も後世にずっと残るだろうしな」
大江尚樹九段。29歳で棋神のタイトルを奪取し2回防衛に成功している。順位戦でも棋神在位中にA級に昇級し通算2期。だがその後は成績を落とし、40歳を前にして負けが多くなると、後進の育成に力をいれるようになった。
「師匠はタイトル3期、A級2期、私がいなくてもその名前が棋界で失せることはないでしょう」
盤面はかなり静香に有利に進んでいた。だがここで手を抜くのは失礼だろう。最後まで全力で勝ち切ることが、公式戦で為せなかった恩返しだと静香は思っている。
「確かにタイトルを取ったことがあるかどうかで棋士の名前は全然違う。だが、弟子がいるかどうかも同じように違う。特に初の女性棋士であり、芸能界でも成功している静香の事を知りたい人は多いだろう。静香の事を調べると、必然的にその師匠欄にこの大江尚樹の名前が残る。永遠にね」
思えば師匠にはいろいろ迷惑をかけたと改めて静香は振り返った。奨励会に入ってからはジェットコースターのように上がって下がって上がるという成績。芸能界に入るなどと荒唐無稽な事を言い出した時も後押しをしてもらったし、身バレした時もサポートしてくれた。そして三段リーグを勝ち抜いた後のお祭り騒ぎの時も、老骨……は失礼か、身を削ってマスコミ対応を一緒にしてくれた。
「そう言って頂けると大変ありがたいです。実際ここまで来れるとは思いませんでした」
盤面は終盤へと入って行った。静香にはこのまま勝ち切れる自信がある。静香は攻めを続けていく。
「いや、まだ始まっていないよ。プロになってからが本当の将棋の世界だよ。それに人生を賭けたのだからね。いや静香は片足だけだから大丈夫か」
必至になった時点で師匠は頭を下げた。
「負けました」
静香がそれを師匠の口から聞いたのは、当然初めてのことだった。
「今まで本当にありがとうございました。多分これからもお世話になると思います。今後ともよろしくお願いします」
静香は少し泣いた。師匠は少し笑った。
「ははっ。弟子が女優だと、その涙の真偽もわからんもんだなあ。おいっ」
最後の言葉はおそらく奥様への掛け声だ。ちょっと離れたところから足音がする。
「そんなひどいことを言わないでくださいよ。今は本気で涙ぐんでいたんですから」
静香がそれを言い切る前に奥様が部屋に入って来られた。とんでもなく大きな風呂敷に包まれた、薄くて長い箱を持っていらっしゃる。あれは着物だ。
「師匠、こんな高いもの頂けないですよ」
静香は中身も見ずに固辞した。弟子の四段の昇段祝いに、下手なものは贈らないだろう。
「だが私には息子しかいないしな。その息子も30を過ぎたのに結婚する気配もない。静香が着なかったらお蔵入りだ。昇段祝いと誕生日祝いを兼ねて、な」
確かに静香は来週17歳の誕生日をむかえる。だが、静香はもう一度固辞した。
「静香が着物など必要がない棋士ならばこんなものは買わなかったよ。でも来月早速機会があるだろう?」
今度は静香はうなずいた。同期の櫛木のデビュー戦はおそらく5月から始まる。だが静香のプロデビュー戦は先日放映された『熱血颱風』でも報道されていたように、既に決まっている。4月1日に正式に四段に昇段した後、その2日後にデビュー戦。それも和服で出ることが慣例になっている棋戦だ。
そして相手は三連覇中の向田女王。場所は昨年千夜がナビゲータを務めた神奈川県秦野市の鶴巻館だ。四段昇段の次の日がタイトルマッチの前夜祭という日程は、おそらく初めてなのではないかと思う。
そして師匠は知らないだろうけれど、4月から静香には新しいスポンサーがいくつか付く。そのひとつが滝山呉服店だ。滝山呉服店は将棋界では御用達みたいなものだし、女王戦の協賛スポンサーでもある。また独自の女流棋戦も主催している。スポンサーから提供された以外の和服を着るのはさすがにご法度だ。でも女子オープンの女王戦についてはおそらく師匠もご存じのはず……
「わかりました。師匠に頂いた着物を着てタイトルも頂いてきます」
そう言って静香は師匠に深々と頭を下げた。