42.女流棋士
最終局終礼の後、静香は櫛木と揃って奨励会幹事である石鎚六段に連れられて、3階の応接室に向かった。失礼しますと言って中に入ると、関係者がずらりと揃っていた。多分午前で昇段者が決まったので、そこから皆を集めたのだろう。
梅原会長を始め、常任理事と女流棋士会長を兼務している岩城女流五段、同じく常任理事でメディア部を担当する真田九段、鋭王のタイトルホルダーでありながら、棋士会長を勤める早蕨九段。将棋界を代表するお偉方が、ソファに体を小さく縮めながら並んでいるのはある意味珍しいものを見せてもらったと言ってもいいだろう。
当然反対側のソファにも人が並んでいる。たしか引退したはずの池添九段、三段リーグで静香とは対局がなかった池添三段の父親だ。その隣には静香の師匠である大江九段。そして鎌プロの鎌田社長。
段取りが決まっていたのだろう。その鎌田社長の隣に石鎚六段が腰かけたので、こちらはこちらでいっぱいだ。静香は櫛木とならんでお偉方たちの横に立つ。
この中で池添九段だけ、なぜここにいるのかが理解できなかったが、静香の師匠の横にいることを考えると、おそらく櫛木三段の師匠なのだろうとあたりをつけた。
「まずはおふたりともお疲れさん。4月からはまた頑張ってもらうから、3月はゆっくり休んどけよな」
梅原会長はそう言うけれど、4月はセレモニーだけで棋戦はない。いや正確には名人戦やここにいる早蕨鋭王のタイトルマッチや、竜帝戦のランキング戦などはあるけれど、新人棋士が参加する棋戦はない。四段となった櫛木がプロとして最初に指すのは5月からの棋神戦の1次予選、あるいは若手の登竜門と言えるチャレンジカップや清流戦になるだろうと静香は思う。静香のプロデビューは4月だけど。
「まあゆっくりするのは明日からということで、今日はこの後いろいろあるんだっけ? 疲れてると思うけど、将棋界のためにももうひと頑張りしてもらうかんな。写真撮影はもちろんだけど、せっかく鎌田プロダクションさんが段取りしてくれたから、ふたりして今晩のニュースをハシゴしろよ」
ほら、思ったとおり櫛木も逃げられなかった。というか明石さんじゃなくて社長がここにいることに静香は驚いた。
「こんなもんか? あときーちゃんから一言あるんだよな」
きーちゃん?
「そうね。もう今のうちに言っておきましょうか」
口を開いたのは岩城女流五段だった。たしかフルネームは岩城桔梗だから『きーちゃん』なのか。ひらがなだと「き」がみっつ並ぶことに静香は初めて気が付いた。
「既に多忙な天道さんにお願いなのだけど、女流棋士になってもらえないかしら?」
ああ、そういうのもあったよね。静香は改めて思い出した。三段リーグとプレーンオープンのおかげで頭から飛んでたけれど。
女流棋士は棋士とは違い文字通り女性しかなれない。そして女流には女流だけの棋戦があり、中には奨励会員を含むアマチュアでも女性であれば参加できる棋戦がある。まさに先日静香が勝ち抜いたプレーンオープンや、その準決勝で対局した大沼女流三段が持つタイトルである女流王者がそれにあたる。
その一方そうでない棋戦もある。典型的なのは女流の順位戦と言われる白銀戦だ。それらには女性の棋士は参加できない。参加できるのは「女流棋士」だけだ。
この辺りはいろいろややこしい。
女流棋士になるための条件はいろいろあるが、奨励会や棋士と関連するところだけ記すと以下のようになる。
例えば女性の奨励会員が奨励会を退会した場合、2週間以内に申請さえすれば無条件で女流棋士になることができる。先ほどの大沼女流王者がまさにそのケースだ。
そして奨励会員が退会せず、四段に昇段した場合、この場合も退会と同じ条件で申請すれば女流棋士になることができる。今回岩城会長が静香に言っているのはこのケースだ。女性で四段になる資格を得たのは静香が初めてだから、当然このルールも適用されるのは初めてのケースになる。
逆に女流棋士が、条件を満たして奨励会に入会した場合は、女流棋士としての立場はそのままなので、女流の棋戦に出る権利か義務がある。権利か義務かは棋戦によって違う。そして四段に昇段した場合は、これまでの女流棋戦に加えて、通常の棋戦に出る棋士の資格も得る。結果としては、静香が女流棋士になった場合と同じ立場になる。
女流棋士の資格を得ること、普通ならメリットしかないけれど、わずかながらデメリットもある。当たり前だが、参加義務のある女流棋戦には必ず出場しなければならないというものだ。特に白銀戦などはDリーグからの参加になる。持ち時間は2時間なので奨励会よりも長い。つまり奨励会に入ることもできないようなレベルの指し手を相手に、その日のほとんどを費やさなければならない。実際、今まさに大沼女流王者が白銀戦D級でワンサイドゲームを繰り返している。
それは学生であり、また芸能人でもある天道静香にとってはそれなりの大きさのデメリットと成り得る。だからわざわざこうして岩城会長が依頼してきているのだろう。だから鎌田社長がここにいるのだろう。
「社長、女流に参加していいですか?」
静香は社長の了解を求めた。鎌田社長は梅原会長や岩城女流棋士会長に向かって話した。
「この場でこのようなことを申し上げるのは、大変失礼なことだと理解しています。しかし私自身の立場からはこう言わざるを得ません」
そうして静香に首を向けて言葉を続ける。
「はっきり言って俺はこの世界のことを、この中の誰よりも知らない。だがそれでも無駄だと思う。だがお前が普通の芸能人の枠に収まるとは、俺も二本松も明石も思っていないし、契約書にだってそう書いている。お前のやりたいことを優先すれば、それが最適解なんだろう」
静香は黙って社長に頭を下げた。それから岩城先生に向かって言う。
「お誘い頂きありがとうございます。手続きはこの場でできるのですか?」
女流棋士会は棋士会に統合された時に、女流棋士会長の役職も無くなってたのですね。まあこの世界では棋士会の内部組織として存続しているということでお許しくださいませ。