40.未だ三段
「負けました」
静香が114手目を指した後、相手はそう言って頭を下げた。静香は先手のうなだれた顔から涙が零れ落ちるのを見ないふりをした。
序盤から堅実に駒組を進め、中盤からはずっと後手有利で進めることができた。7手詰めに入っても相手は諦めず、114手目で完全に詰ませてから相手はようやく投了した。26歳、たった今8勝9敗となったため、午後に勝っても9勝9敗の指し分け、勝ち越すことはもうできない。静香の昇段と同時に彼の奨励会退会も決まった。この1局でふたりの三段が4月にはここにいないことが決まったが、その明暗ははっきりと分かれた。
「ありがとうございました」
相手は秒読みだが、静香は時間を中盤に時間をかけただけで、あとはほぼノータイムで突っ走ったので合計50分ぐらいしか使っていない。静香は黙って立ち去る対戦相手を見送ると、盤面をひとりで片付けた。
2月末、今期最後の例会、午前の対局で静香の四段昇段が決まった。もちろん四段昇段は男性棋士にとっても喜ばしいことだけれど、女性としては史上初、悲願の四段昇段者、それにこの天道静香がなった。歓びを爆発させたいところだが、まだ対局中の人たちも多いし午後の対局もある。昇段が決まったとは言え、もちろん午後も勝つつもりだ。
だが、おそらくその前に記者会見のようなものをした方がいいだろう。前に櫛木三段と対局して以降は、常に携帯食料を持ってきている。将棋の時だけでなく、芸能界の仕事の時もだ。
その櫛木三段がどうなるのかを静香は知りたい。静香の位置から櫛木の後ろ姿が見える。もし櫛木が昇段した場合、彼はまだ中1なのでこれまでの最年少四段の記録を塗り替える。将棋界に与える影響は、もしかしなくても静香の昇段よりも櫛木の昇段の方が大きいはずだ。
櫛木三段は背中しか見えないが対戦相手の顔は見える。あの表情は先ほどまで静香の目の前にいた奨励会員を思い起こさせた。彼にとっても何か、例えば人生がかかった一局なのかもしれない。静香は立ち上がると奨励会幹事の石鎚六段の所に、先ほどの対局の結果報告に行った。まあ対戦相手が立ち去り静香がひとりで片付けたことで、結果はご存じだろうけれど。
「おめでとう」
石鎚先生は結果を聞かずに小声でそうおっしゃった。静香は先生の前に正座して小声で返す。
「ありがとうございます。すいません。石鎚先生にお願いがあるのですがよろしいでしょうか?」
「なに?」
静香はこの昼休みに簡易的な会見をする必要があるだろうこと。そしてできるなら櫛木新四段と一緒にした方がよいことを話した。石鎚先生もそれに同意された。
「まあ終礼後に連盟から昇段のお知らせとかは当然出すけど、今回はそれだけじゃすまないもんな。実際朝から多くのマスコミが駆け付けてるしね」
でもその時、他の結果報告者が来たので、一旦石鎚先生の前を譲り、それが終わってまた続きを話そうとしたところに、当の櫛木新四段が勝利報告に来た。
「櫛木先生、昇段おめでとうございます」
静香が小さくそう言うと櫛木は不思議そうな顔をした。表情だけだとあまり嬉しそうには見えない。
「四段に昇段するのは4月になってからですよ。それに天道さんも勝ったんですよね?」
静香はうなずいた。そして櫛木を連れて対局室の外へ出る。
「私は女性初。あなたは最年少記録を更新。今次点を持っている人の中で今期次点を取る可能性がある人はいない。だからちょっとした会見を早めにやっておきたいの。さっき石鎚六段もそうおっしゃってたわ」
櫛木『まだ三段』もそれに同意してくれた。こう見えても4つ年上の静香の顔を立てようとしてくれているのかもしれない。
「だからこのまま報道陣の所に行くわ。結果は多分もう伝わっているだろうからあちらも待ち構えているはずよ」
記者のたまり場は先ほど石鎚六段から聞いている。櫛木はまたうなずいたが、同時に質問もしてきた。
「ちなみに芸能人初というのは無いのですか?」
静香が敢えて触れなかったことに触れて来た。やはり櫛木も静香と同じように、少し不安定なのかもしれない。
「棋士は全員芸能人でしょう」
静香が言い切ると櫛木がなにか反論しようとしていたが、千夜は強引に櫛木のまだ小さな背中を押した。
本日の対局室はすべて奨励会が使っているが、連盟が2階の研修室を記者用に押さえている。そこが臨時記者会見場所となった。
静香と櫛木が入って行くと報道陣の一部から拍手が沸き起こった。おそらく彼らマスコミから見ても、将棋連盟から見ても、話題性という一点だけで見たならばベストな組み合わせだと思う。
一番前の席に報道陣を向いてふたりは深く礼をして、椅子に座ると拍手がまばらになった。さて、本来なら誰かが司会進行役を務めるべきだが、連盟職員もいないし、記者側で取り仕切ろうとする人もいないようだ。このままなし崩し的に会見が始まるとマスコミ慣れしていない櫛木が少し気の毒な気がする。そんなことを気にするようなタマではないような気もするが……ここは年上の私が一肌脱ぐべきだろう。もちろん比喩的な意味で。
座ったばかりの静香は再び立ち上がると、卓上に置いてあったマイクを取り上げると千夜ボイスで話を始めた。
「皆さまお忙しい中お集まりいただき、誠にありがとうございます。それでは今期の三段リーグで昇段が確定しましたふたりの記者会見を始めさせて頂きます。僭越ながら司会は私天道静香が急遽、務めさせて頂きます」
その髪型や服装などは完全に天道静香だが、表情や話し方は舞鶴千夜のものだった。そのあまりないシチュエーションのせいというわけではないだろうが、シャッター音が鳴りまくる。
「ではまず、最年少で三段リーグを突破された、櫛木三段にお話しをお伺いします。三段リーグはまだ1局残っていますが、昇段を確定された今の率直な気持ちをまずはお聞かせください」
静香は今の櫛木の気持ちなんて知りたくないけれど、マスコミ的にはこれが正解だろう。いきなりマイクを向けられた櫛木が少し戸惑った様子を見せる。えー、到ってありふれた質問に留めてるでしょう? それにこのお姉さんがいなかったらもっとカオスな状況になっていたと思うよ。
「えーっと、率直な気持ちですよね。えー。その……天道さん……、この一連の流れはアドリブなんですか?」
その逆質問に静香は即答した。
「もちろんそうです。それがなにか?」
静香は櫛木への質問を極めて無難なものに留めるつもりだった。だがどうやらその必要はないようだ。とは言えもちろんやりすぎは良くない。だってこれから長い間、同期の同僚になる。師匠も引退するし、数少ない面識のある棋士。そしてその将来性を考えると友好関係を修復可能な範囲にとどめておかなければならない。
静香は櫛木に対してどのあたりまで踏み込めばよいのかを、マスコミ業界の人間の目線で考えた。