36.頓死
冬休みに入ったので、日中は取材や撮影。夕方からはラジオを中心にアルバムと年末に公開された映画の宣伝に回った。DJ、ミュージシャン、お笑い芸人、落語家、こうやっていろんな人と話せるのは素晴らしい。生放送が多いから、千夜のトークは嫌でも磨かれていく。そして話に困ったら別の番組に出た時のことを話せばよいので、ネタもどんどんたまっていく。もちろんテレビでもアピール。
そして日曜日は今年最後の三段リーグがあった。静香は2戦ともちょっと考慮時間を伸ばして指してみたが、結局第一感をそのまま指すことが多かった。結果は無事1敗をキープ。遠山三段が午前を、前の例会で静香に勝った赤川三段が午後に星を落としたので、1敗は静香と櫛木三段のふたりだけになった。まあようやく半分まで来たところだし、まだ強豪との対局も残っているので油断はできない。
そんなことを言ってる矢先、芸能界の仕事で慌ただしい年末年始を終えて、年明け最初の例会の午前で静香は負け2敗になった。それも完全に見落とし。相手は中位とはいえ三段なのだから、一手のミスが致命的になるのは当たり前だ。これでまた昇格が見えなくなった。
ひきずらないように、ひきずらないように。静香は自分に言い聞かせる。午後の相手は三段リーグの中では下位だが、だからといって勝てると決まった勝負ではない。そもそも順位では静香が一番下なのだ。静香は敢えて早く指し、大胆に攻撃的に攻め、なんとか攻め切った。これで10勝2敗。櫛木三段は1敗を堅持。2敗は静香を含め3人が並んでいる状況になった。このペースが続くとは思えないが、このままだと4敗どころか3敗でも昇段が厳しいかもしれないという恐ろしい状況になっている。
その次の週は大沼女流王者と『プレーン女子オープン』の準決勝。名前はもちろん舞鶴千夜を使うが見た目が静香なのは許して欲しい。
今回は振駒の結果後手。大沼女流王者は居飛車派、千夜も今回は居飛車で対抗。7六歩、3四歩、2六歩、静香は4手目に8四歩を選択。横歩取りを意識した手順だ。そのまま14手目に8六同飛とした。さてここで横歩を取るかどうかが大きな分岐点となるが、ここでノータイムで3四飛と横歩を取って来るのは元奨励会三段らしいというべきかどうか。ここで後手の千夜に選択肢が渡されたので、8八角成と角交換を仕掛けた。
その後はお互いに時間を使わずに攻め合う展開になった。大沼先生も意地になっているのかもしれない。68手目に5八飛打と千夜が相手陣の金銀両取りを仕掛けた。おそらく玉が下がって金を守るだろうな、と千夜は思ったのだが、大沼女流王者は7三桂打ちと千夜の陣を荒らしに来た。千夜は驚愕した。確かにこれで千夜の金が逃げる必要があるし、そうなるとその後も大沼先生の攻めが繋がる。
だが次の瞬間大沼女流王者の顔が真っ青になるのが千夜には見えた。それはそうですよね。大沼先生も気が付いたのだろうが、当然待ったはできない。千夜は相手の攻めを無視し5五角打として、6六にいる相手の王に王手をかけた。
5筋にはさっき打った飛車が利いている。7四にこちらの歩がいるので、7五は逃げられない。7六には相手の銀、6七には歩がいて、7七にはついさっき打った角の手が届く。よって先手玉は6五しか逃げ場が無く、そこに逃げても6四歩と突けば詰む。その6四歩には5五角が利くからね。
三手詰めを見逃した、つまり頓死だ。先週の静香の見落としも酷かったが、これはちょっといただけない。
大沼女流王者は負けましたと頭を下げ、千夜もありがとうございました、と返した。わずか70手、しかも互いに超早打ちだったから、対局開始から40分しか経っていない。
半年程前に奨励会を三段で退会、退会前から女流王者のタイトルを持ち、女流転向後は各女流戦の予選を勝ち上がっているタイトルホルダーでも、ノータイムで打ち続けているとこういうことがある。先日の静香といい、今日の大沼女流王者といい、単なる早打ちではこういうことが発生してしまう。基本は自分のペースで。でも考えるべき時は考える。それがなかなか難しいことは承知の上で、千夜は自分に言い聞かせてから、勝利者インタビューに臨んだ。初出場で初の決勝進出。だが、素直に喜ぶことはとてもできなかった。
その次の週は1月後半の例会がある。午前の対局は静香にとって残りの対戦カードの中では一番順位が上の強敵だ。榎本三段は今回の順位(前期の成績をもとにしている)で3位。居飛車穴熊のスペシャリスト。前期ではそれで13勝5敗だったが、今期は研究負けしているのか現時点で8勝4敗、昇段するにはもう後が無い。この静香との対局でも穴熊を指すのか、それとも違う戦法を試してくるのかはわからない。静香が藤井システムを指したことがあることも当然知っているだろうし、その対策も当然研究の範囲内だろう。
静香は先手、まずは相手が居飛車穴熊を前提で考える。流石に初手1六歩はやりすぎだろう。7六歩、3四歩、で三手目に6六歩で角道を止めた。榎本三段はやはり居飛車穴熊を目指すのだろうか?
静香の7手目の1六歩に4二玉なのでやはり居飛車穴熊なのだろう。穴熊は比較的女流でよく使われる囲いだ。確かに固いが、手順はかかるし、と金に弱いしと弱点も多い。だから榎本三段も今期あまり勝てていないのだろう。私は3筋の歩を開けていないから敢えて1七に桂馬を跳ねて穴熊崩しの準備をする。
その後穴熊は解体できたが、こちらの玉も丸裸という危ない状況になるが、と金と桂馬を使って攻め123手で榎本三段は投了した。
さすがスペシャリストだけあって、研究が深く静香も途中危ないところがあったけれど、特に後手で戦型を固定するのは良くないと思った。榎本三段はまだ19歳だし、来期は戦型を増やしてくるだろうと静香は予想した。
静香は午後の対局も勝ち、残り4戦で12勝2敗。櫛木三段が午後に負けて同じく2敗。先日までは他にも何人か2敗の三段がいたが、先週、今週で全員がどこかで星を落としており、2敗はこのふたりだけ。第8局で静香に勝った赤川三段に到っては何があったのか前回今回の例会で3連敗し大きく後退している。
ともかく三段リーグの例会は後2回、4局しかない。幸い残りの対局に目立った強豪はもういない。とはいえ、年明け最初の対局で中位の三段に負けているわけだから油断はできない。むしろここまでができすぎといえる。
やはり今期で昇段を決めてしまわないと来期は厳しい。静香は改めて残りすべてを勝つ決意をした。