35.と金囲い
今度は静香が攻める番だ。読み切るまでの時間はないがひたすら攻める。櫛木三段も持ち時間は無い。両者秒読みに入っており、流石に早打ちが得意の静香にも詰めるまで読み切れる自信はない、それでも最善手だと信じて打ち続ける。そして耐え抜いた末に逆王手をかけた時に、これでちょうど勝てると思った。ここで金で合駒されても勝てる。だが櫛木三段はそうしない。残り2秒になって銀で受けられた。金じゃなくて銀?
それは静香の考慮から漏れていた。静香は最後の1秒まで考える。考えても考えてもこれだと詰まない。勝てるはずだった手に代わる詰み筋はない。この対局、静香に勝ち筋が無い。だが、それでも足掻くことができるはずだ。だが次の一手は一旦は攻めを続けるしかない。そして相手が考えている間に静香はこのまま攻めるのではなく、別のことを考えた。
まずは攻めるふりをする。中途半端な王手に対し、櫛木三段は的確に対応してきた。だが、静香の狙いは相手の王では無い。静香の玉の前進を押しとどめている、相手の金を払った。
これで静香の意図は相手にもわかっただろう。
今度は守る番だ。静香の玉は裸同然、だが相手の駒はまだ近くにいないし、上へ抜ける道も開いた。その後静香は20手近く逃げ回って入玉すると、最強の守備陣形であると金囲いで自玉を守った。一方、静香の入玉を阻めないことが明らかになった時点で、櫛木三段も入玉を目指した。そして204手で持将棋となった。静香はぎりぎりの24点だ。この後は、先手後手入れ替えで指し直しだ。
「天道さんって強いんですね」
櫛木三段の年齢より幼い、少し驚いたような無邪気な発言が静香の気に障る。今期の順位1位様から順位最下位へのお言葉だから当然なのかもしれないが、これでもまだ無敗なんだけどな。
9時から始まった対局はもう1時近い。指し直し対局は昼休みを徹して行われた。持ち時間はどちらも45分。後手番となった静香は、先手7六歩、3四歩、7五歩の後、4手目は敢えて4二玉とした。俗に早石田封じと呼ばれる持久戦の構えだ。その後中盤に入ったところで櫛木三段が時間を使いつぶす、終盤が始まった時にはそれなりに静香に優位な状況に入っていた。そのまま96手で静香は勝った。やった、全勝対決に勝った。これで無敗は静香ひとりだ。
「やっぱり天道さんって強いんですね」
櫛木三段はもう一度そう言うと。話題を変えた。
「ところでもう3時近いです。本来なら2時から午後の対局ですけど相手に待ってもらっている状態です」
まだ中学1年生。見た目は年齢よりも下にしか見えないが、まるで大人みたいな話し方をする。だが、時計を見ると確かにもう2時50分に近かった。
「もうご飯食べに行く時間ないですけど、これ要りますか?」
櫛木三段は静香に携帯食料を差し出した。
「いいの?」
櫛木がうなずく。
「いいですよ。僕はいくつか持ってますし」
これはありがたい。このままトイレに行く必要があるので、汚いけれどもうトイレの中で食べてしまおう。
「ありがとう。これって500円ぐらいだっけ?」
櫛木三段はお代は要りません、と古風な発言をしてその場を去った。
午後の対局は1時間遅れの3時から始まった。相手はここまで1敗の赤川三段。この一局、静香はあっさりと負けて7勝1敗となった。全勝はいなくなり、静香、赤川、遠山、そして静香と同じように午前の対局で力を使い果たしたと思っていた櫛木は午後はあっさりと勝ち1敗に踏みとどまっていた。8戦を終えてこの4人が1敗。後は2敗以下だ。13勝5敗で昇段する年も珍しくないことを考えると、近年稀に見るハイレベルだ。いや上下差が激しいと言うべきか。だが、三段リーグはまだ半分以上残っている。
次の週、静香はまた将棋会館にきていた。『プレーン女子オープン』の2回戦だ。1回戦が10月だったからあれから2か月経って2回戦。だがここからは2月の決勝まで毎月試合がある。相手は女流三冠を倒して勝ち上がって来た若手の二段だったが、先手になった静香は四間飛車を選択して勝った。これでベスト4。
ここまでは組み合わせに恵まれたが、ここからは強敵しか残っていない。次の相手はもう決まっていて、静香の前に奨励会三段で頑張っていた大沼女流王者が相手だ。静香は参加したことがないが、女流王者も奨励会員が参加可能なタイトルだ。昨年度末に女流に転向して1年足らずで他の多くの棋戦を勝ち上がっている。おそらく来年度にはもっとタイトルを取るだろう。
静香のその次の週はまた三段リーグだし、平日と土曜は新アルバムの宣伝活動。年が明ければ、由美ちゃんのドラマの収録とその後に東京で2日間ライブがあって、それが終わったら三学期だ。
むしろ冬休みに入ってしまった方が忙しいのではないかというぐらい予定が立て込んでいる。そして一番時間に余裕があったのが、冬休み前の期末考査中だった。この期末で静香はついに理系で1位になった。3組で1位は初めてだとある先生が言っていた。来年の1組は確実としても、そろそろ進路も決めないといけない。
卒業までに三段リーグを突破できればそのまま就職するという選択肢が大きくなる。
もし、このままのペースで勝ち続ければ、今期の上位に入ることはもちろん、昇段や次点だって今の時点ではまったく手の届かない夢ではない。だが、今期は対戦相手も静香のことあまり知らなかった。特に最初の方は、二段から上がったばかりの小娘の早指しに付き合ってくれる三段が多かった。
だが来期以降はきっちり対策を立てられてしまうだろう。この昇段直後、初めての三段リーグが成績のピークだった、などということは十二分にあり得る。他の三段と静香は、将棋の勉強時間が圧倒的に違うし、研究会にも参加していないし、奨励会員どうしの繋がりも希薄な静香は情報戦でも不利になっていくだろう。
いっそのこと三段リーグは今期だけで止めてしまうという選択肢も存在する。そして女流に転向するのも、将棋からすっぱり足を洗うという選択肢もある。
だが、それを考えるためにも、まずは今期の三段リーグで全力を尽くさないといけない。まあ冬休みの芸能スケジュールを乗り越えてからの話だけど。