287.記念撮影会(10)
鎌田プロダクションの営業部長、二本松香織 は舞鶴千夜という存在を作り出した張本人である 。彼女が新宿で彷徨っている天道静香を誘わなければ、すべての関係者の人生はまた違うものになっていただろう。
その舞鶴千夜が相談したいことがあると香織に連絡してきたので、香織はスケジュールを調整してそのための時間を作り、小さな会議室を予約した。
自分が誘ったタレントとは言え、香織はスカウトでもマネージャーでも無い。だから現場に影響を及ぼさない範囲での接触しかしてこなかったし、千夜の方からこのようなことを連絡してきたのも初めてだった。
「失礼します」
予定した時間よりも早く、千夜が会議室に入って来た。
「すいません。私からお願いしておきながら遅れてしまいました」
「まだ時間前だから気にしないで。私もひとりでやりたいことをしていたの。適当に座って」
香織はそう言って年度末の決裁に関する些事を脇に追いやって、目の前の最重要案件、つまり舞鶴千夜に注力することにした。
「これは明石さんたちにも相談していることなんですけど、香織さんの視点からも意見を聞きたいと思ってお時間を頂戴しました」
香織は安堵した。沙菜ちゃんに既に話しているのであればそんなに悪いことではないはずだ。もし芸能界を辞めるなどと言い出したのであれば、その時点で香織に連絡が来ているはずだ。
香織は営業部長。個々のタレントの売り込みではなくて、鎌プロ主体のイベントや、オリンピックなどの大型プロジェクトに参画することが主なミッションだ。他に担当する部署が明確でない案件も香織の所に持ち込まれる。
そして6年前と違うのは「営業部長」の前に「常務取締役」 という肩書が追加されていること。営業部だけでなく、会社全体に責任を持つ立場になった。もちろん営業の仕事も評価されたとは思うけれど、一番の功績は目の前のタレントを捕まえたことだと香織は思っている。
そして香織は続きを話すように彼女を促した。
「無事に進級も決まり、4月からは4年生になることが決まりました。決して3年生が楽だったわけではありませんが、より時間配分が厳しくなります」
香織も医学部の学生がこなさなければならない膨大な座学と実習、そして試験があることについては下調べしている。4年生では客観的臨床能力試験 (OSCE)と共用試験(CBT)に合格しなければならない。それはとにかく合格すれば良いものではなくて、成績が5年生以降の病院実習に直接影響する。
5年生からの病院実習は、文字通り大学病院の中で患者を相手にする実習だから、彼女がより忙しくなるのは明らかだ。6年生になればそれに加えて卒業試験や、医師国家試験への対策も加わる。学年を重ねるに従って忙しくなるのが医学部だ。
「そして対局です。幸い女流はタイトル戦だけですし、一般もタイトルを3つも取れたので、予選の数は減りました」
とは言っても他にもタイトルは5つある上にトーナメントの棋戦もある。
「ですが、私はこれまで公式戦にしか参加してませんでした。これまでは学業優先で誤魔化してきましたが、タイトルを取った以上非公式戦にも参加するべきではないか、と考えています。でもやはり時間がありません」
なんのための時間がないのか。彼女は言葉にしなかったけれど、それが歌ったり演技したりするための時間であることが香織にはわかる。
新聞各社の影響力や財政的余力が低下する昨今、将棋界において非公式戦の役割はますます重要になっている。
公式戦には格式と伝統が求められる。それは将棋界の根幹だが同時にエンタメの要素を盛り込むことが難しいという側面がある。
一方、非公式戦は将棋をコンテンツとして楽しむ要素が盛り込まれている。ファン投票、チーム戦、ドラフト、フィッシャールール、控室での棋士のやりとり。
ファンを参加させ巻き込むことで、公式戦だけでは伝わらなかった魅力を伝えることができる。強さとは違う棋士の人間性を前面に押し出すことができる。そうして新しいファンとスポンサーを呼び込むことができる。非公式戦は将棋界が生き残るために欠かせないものだ。
この将棋界において極めて重要な非公式戦において、ファン投票1位になっても参加しない棋士がいる。香織の目の前に座っている天道静香その人だ。ファンもまた、彼女が参加しないことを知りながら投票が続いている。
今のところは。
「非公式戦はエンタメです。そして私はこれでもエンタメのプロだと自認しています。香織さんが、明石さんが、鎌プロが私を育ててくれました」
香織はうなずいた。
「多分5年生になったら身動きが取れなくなると思うんです。この1年間、私の時間を思いっきり将棋をエンターテイメントとして盛り上げることに注力しても良いでしょうか?」
香織は首を縦に振るより他なかった。だが言うべきことは伝えておかなければならない。




