272.木枯らし(4)
チャンピオンシップから4日後、玉将戦挑戦者決定リーグ第二局の日はあっという間に来た。静香は第一局が抜け番だったのでこれが初戦。相手は御厨名人というしょっぱなから修羅場だ。御厨先生は第一局で月影先生を相手に、先手で角換わりで勝利している。
幸い振駒では静香が先手と決まった。同じリーグ戦でも順位戦は対戦表ができた時点で先手後手が決まっているけれど、玉将リーグは違う。一戦一戦振駒で決まる。だから下手をしたら六局すべてが後手などということも確率的にはあり得る。えっと64分の1か。だから決してあり得ない数字では無い。
よろしくお願いしますと頭を下げて、対局開始。最初の数手から戦術は横歩取り。
8手目3二金の後、静香は6八玉と寄ってちょっとしたバリエーションルートに入った。御厨先生が8六歩と突いてきたので、同歩、同飛と定跡をなぞった後、静香は13手目に2四歩と飛車先を突いた。
ここで御厨先生の手が少し止まった。だが前例はまだまだいっぱいある。一瞬手が止まっただけで、同歩、同飛、7六飛と先に横歩を獲られる。
23手目に2三歩と打たれた。御厨先生の飛車が7四にいるから横歩は取れません。普通なら静香は自陣に飛車を引く。だが2二角成と角交換をしかけた。自分で言うのはなんだけど、結構な急戦。評価値は下がっているので御厨先生相手に逆転する必要がある。でも研究しているから静香のペース。まだ前例もあるけどなんとかなればいいなあ。
角交換の後2五飛と中途半端に飛車を引くこのまま飛車を振ることはバレているはず。一旦8五に振って、御厨先生の歩を一枚使わせてから今度は6筋へ。結構天秤が相手側に傾いているのがわかるけどこのまま走る。31手目に9六に角を打つ。
御厨先生が守りを固めるので、飛車角交換を仕掛けてここから守りを固めようとすると、今度は御厨先生から飛車角交換を仕掛けられた。なんだか男の子は飛車が好きな気がする。もちろん静香も嫌いではない。
嫌いではないが、42手目2八飛、と先ほど交換した飛車を早速自陣に打ち込まれた。でもこれは想定内なので、気にせずノータイムで3四歩と突いて、相手の桂馬の邪魔をした。すると御厨先生の次の一手が驚愕の2七角。
えーっ。静香の自陣に御厨先生の飛車と角が縦に並ぶ。バランスはあまり良く無さそうだけど、インパクトがものすごい。これで静香の研究範囲を出でしまった。これまでは静香がリスクを背負いながらもイニシアティブを持っていたのに対し、ここからは逆になりそうだ。
だがテンポは落としちゃだめ。4時間あるからって考えたらその時間に御厨先生も考える。ノータイムで角を打ち込んできたから、御厨先生も行けると言う感覚で指しているはず。だが静香も有効な攻め手はぱっと思いつかないので、相手の大駒が並んだ右辺を、自分の玉で守る。45手目、先手4八玉。
だが御厨先生の猛攻が始まる。3八角成、ええっっっ、強引過ぎない? 無理攻めだと思うけど、同金以外だとあっという間に詰まされてしまうので他に選択肢が無い。竜を作られてしまうけど仕方がない。2九飛成の後、飛竜交換するために5九飛と自陣に飛車を置いたけど、竜には逃げられた。仕方がないよね。
だが今度はこちらが攻める番。一旦3三歩成、同銀の後、6五桂打とする。同桂ならさらに同桂 とできるのだけどまだペースは御厨先生。静香の攻撃を無視して、3六歩と桂馬の頭に打たれた。2六の竜が怖い。これって不味くない?
このままだとタダで取られるので4五桂と逃げるけど、今度は守りをケアされる。御厨先生はバランスがいいなあ。名人だから当たり前か。2七歩と龍を追い返そうとすると3七に銀を打たれた。もうやだ。
でも将棋の棋士は相手が困ることをやるのが仕事。そう思うと悲しい職業なのだけれど、自分が好きでしていることなので仕方がない。金を見捨てて玉を逃がす。3八に成銀を作られてしまったけれど竜は頂いた。
だがここで一息つかせてくれないのが御厨先生、4八金で王手を喰らう。竜を手に入れたばかりなのに、飛車を見捨てて逃げるしかない。まあその飛車、役に立たないから上げますよ。飛金交換に応じる。惜しくはないのだけれど、自玉がぽつんと寂しそう。
だから左辺に逃げようとしたら先に桂馬を打たれて塞がれる。飛車を打ったらすぐ飛車交換を突きつけられる。飛車交換の後、もう一度今度は敵陣に打ち込む。やはり飛車交換。でも静香は先に王手をしておく。75手目、5三桂成、同玉。それしかないですよね。
そうやって相手の玉を遠ざけてから飛車交換。3一飛成、同金。これで静香も御厨先生も自玉の周りにカナ駒(金と銀)がいなくなった。そもそも静香の玉の周りには駒がひとつも無いし、御厨先生も歩が左右に2枚だけ。お互いに紙みたいな防御力で殴り合う。こういう時は先手必勝。
79手目5一飛と打ち込んで王手、5二飛とまた飛車交換を要求されるけど、今度は応じず、3一に孤立していた相手の金を回収して竜を作る。でも8七桂不成でこちらの金も取られる。不成なのは7九にこちらの銀が孤立しているから。
静香の玉は元の位置(つまり5九)にいるけど、九段目にいるのは最初から動いてない、左の銀1枚と香が2枚だけで、さらにその銀は8七の桂馬に狙われているから7九に成桂を作られる可能性がある。そして八段目には相手の成銀が3八にいるだけ。七段目はこちらの歩が邪魔をしてるから、挟み撃ちにあったら死ぬ。ここまで危うい将棋は静香も初めてのような気がする。
でも問題ありません。防御は後回しにして3四の銀を竜で回収。えっ、7九桂成で必至になるって言ったばかりだって? その場合は5四金、4二玉、5三銀、同飛、同金、同玉、5四飛、4二玉、3二金の9手詰めに入ることができる。だから御厨先生は先に逃げるしかないのです。
角で王手、逃げられる。でもこれで勝った。静香は本局で初めて手を止めた。そして後手玉も必至に入ること、速度計算で自分の方が早いことを確認する。
3一龍、4一金で合駒される。
3三角、4二桂で合駒 このまま同角成で行ける?
いいや、考えなくていい、確実に先に香車を獲っておこう。
1一龍、7九桂成、静香も両側を敵に挟まれた。でも問題ないこのまま勝ち切る。早速香を使う。
5五香、5八歩で王手をされるがこれは詰まない。
6八玉、5五飛、ん5五飛? えーい同角成
6九成桂、同玉でOK
5九歩成、これも同玉
4八成銀、これも同玉
3七歩成、これも同玉で問題なし。これで後は手番が回ってくるのを待つだけだ。
5二銀、流石の御厨先生ももう攻め手がない。でも11手詰めだと気が付いているはずなのに投了しないのはなぜ?
4一龍、同玉、6一飛、同銀、3三桂で御厨先生が頭を下げた。
「負けました」
以下3二玉、2一銀、2二玉、1一銀、同玉、1二金で詰む。
「ありがとうございました。
勝った。でも最後は勝つことがわかっていたからだというのもあるけれど、かなり雑な将棋になったと思う。だって御厨先生もほとんど手を止めないんだもの。ストップウォッチ方式だからだけど、お互いに1分も使っていない。お互いにに4時間00分のまま。なお近いうちにこの王将リーグもチェスクロック方式に変わるらしい。
「それにしても凄い盤面になったね」
「それはそうですね」
特に静香の自陣には九段目には最初から動いていない香が隅っこに2枚だけ、八段目には1枚も駒が無くて、七段目には玉、一回跳ねただけの桂馬、そしてやはり最初から動いていない歩が5枚。六段目も歩が1枚だけのほぼ裸玉。御厨先生の玉の周りにも桂馬が一枚だけ。
どうして投了しなかったのですか?
静香はそう聞こうとして止めた。
「えっと持ち駒は……ふたりで13枚か……」
「えっ?」
静香は問い返した。
「いや、途中で11手詰めを見逃してもらったし、持ち駒の数でも気にしてるのかな、と思って」
「えっ? やっぱり4二桂のところですか」
あそこで一度立ち止まった方がいいのかもしれない。
「そうだね。まあどのみち負けてたけどね。この時間を使わない指し方で勝てれば、天道さんにダメージを与えられると思ったのだけれど、やっぱり相手の土俵で勝つのは難しいね」
つまり御厨先生はリーグ戦全体を見据えて戦略的に静香を潰しにきたということだ。それはある意味光栄なことで、やはりある意味残念だと静香は思った。そして自分ももっとリーグ戦全体の流れなどを考えた方が良いのかな、と思った。