271.木枯らし(3)
「負けました」
「ありがとうございました」
御厨先生が投了したので静香も頭を下げた。
ふぅ。ここのところ御厨先生には連敗していたのでようやく1勝を返した。とは言え持ち時間の短い一般棋戦、持ち時間と考慮時間を合わせて15分しかない。将棋チャンピオンシップだから下馬評でも静香が有利だとされていた。
下馬評が有利だから勝てる。将棋はそんな簡単なゲームではない。振駒で後手だったしね。でもこれでディフェンディングチャンピオンとして、会場に来てくれている子どもたち(チャンピオンシップの対局前に小学生の大会がある)にもいいところを見せることができたし、2連覇に向けて決勝に進むことができた。
静香と御厨先生の組み合わせは人気があるので、大会の抽選倍率が高かったと聞いた。そして小さな子でも頑張って残ってくれていることも多い。だからこの後の握手会が大変そうだけどもう恒例なので初めから覚悟している。
これで御厨先生に一矢報いたわけだけど、問題はこの次の対局。玉将戦本戦リーグの第2局が来週ある。その相手は他ならぬ御厨先生なので連戦になる。静香は一局目が抜け番だったので今年の初戦がよりにもよって御厨先生か。
このリーグは7人しかいないので全員が強敵ばかり。今の順位戦のB1の相手だって圧倒される人たちばかりだけど、それに輪をかけた精鋭たちばかり。ポジティブ要素は順位戦が持ち時間6時間なのに対して、玉将リーグは4時間ってことぐらい?
「天道さんがそんな事言うんだ」
長い握手会を終えて対局者控室に戻ると、スーツに着替えた御厨先生がいらしたので、愚痴をこぼしていると意外そうに言われた。
「でもどんな棋戦でも初戦って大事だと思いませんか?」
「それはそうだけど」
よかった。VS(2人だけでする研究会)でもタイトル戦でも一緒だよ、とか言われなくて。御厨先生も重要な対局はそれなりに身構えるようだ。
「でも僕が棋神を獲られたから天道さんは今二冠だよね? タイトル数は僕と同じだ」
『獲られたから』にアクセントが置かれていたと思うのは気のせい?
どうやらお前もトップ棋士だよね、と評価して頂いたようで光栄なことだ。でも実力がそれに見合っているかの実感はない。現状静香が下座に座るのは、御厨名人と櫛木竜帝のふたりだけ。静香は将棋界で序列が第三位になる。
例外はタイトルに挑戦する時だけで、それ以外は小田桐玉将を含む全棋士が静香の下座に座る。この状況にはまだ落ち着かない。櫛木さんは中学生で竜帝で序列第二位になった。あそこまで行くとその状況が当然だと思えるのかもしれない。ちなみに今は竜帝含む三冠なので序列一位です。
「いや名人ですよね? 鋭王も棋神も私には重すぎるタイトルですけど、名人と竜帝は格が違いますよ」
静香は将棋愛好家であれば全員が知っている事を言った。
「あっ、女流を加えたら天道さんは9冠か。それは僕には絶対できないことだね」
「女流は女流でレベルが上がってる気がするんですよね……」
御厨先生が今泉先生(現白銀)と角を落として対局した場合、さすがに勝てないかもしれないがいい勝負にはなるんじゃないだろうか? 静香が対局したら一方的に負けるはず。
「あっ、それは数字にも出てるよね。新四段の子とかが(棋戦の初戦で対局することが多いので)結構嫌がってるって聞いた。負けたら同期にからかわれるからだって。女流のレベルもここ数年でだいぶ上がっているから負けても全然おかしくないのにね」
静香が感じていることを御厨先生も感じてくれているのは嬉しい。でも御厨先生ご自身が公式戦で対局するのは静香ぐらいだろうなあ。
公式戦ではないけれど、王偉は女流王偉と持ち時間にハンデを付けた記念対局、いわゆる「お好み対局」があるけれど、御厨先生は2年前に月影先生に王偉を獲られ、今の王偉は櫛木さん。だから王偉のお好み対局では静香は御厨先生とは対局していない。
静香の戦績? 月影先生にも櫛木さんにも勝たせて頂きました。棋士には持ち時間が10分しかないので完全に静香の土俵だ。なお女流王偉の持ち時間は1時間あるし、月影先生には勝つ気が全然なかった。
『持ち時間のハンデって必要ですか?』
一方の櫛木さんにはそう言われたけれど、伝統だからで押し切った。
なお「お好み対局」というのは江戸時代からある言葉だという。そしてこの時、最初からこの部屋にいた西さんがごほんと咳払いをした。それを聞いて御厨先生がわざとらしく肩をすくめる。
「さて、そろそろお暇するか。僕がここにいると天道さんは着替えられないしね」
それはおっしゃるとおりですね。
「じゃあまた4日後」
そう言って御厨先生が控室を出て行った。今日は土曜日なので、来週といってもたった4日しかない。
静香としても今夜のうちに東京に帰りたいので、西さんが咳払いで催促してくれたのは正直助かった。御厨先生は今日は大阪に泊まるのかな? 静香は西さんと一緒に新幹線で東京に戻った。
され玉将リーグ。去年は負け越してリーグ残れなかったので今年もまた予選を勝ちあがる必要があった。今年は去年よりも勝ち星をあげたい。目標はもちろんタイトル挑戦だけど、せめてリーグに残れる成績はあげたい。
御厨先生もおっしゃてたけど、今の静香は二冠。背負っている鋭王と棋神の価値を下げるわけにはいかない。