265.ペンギンシアター(4)
誰だってそうかもしれないけれど、静香には忘れてしまいたい過去がある。いわゆる黒歴史と呼ばれているものだ。
将棋の棋譜は公開されているのは基本的にプロになった後の公式戦のものに限られる。でも静香は奨励会に入ると決めた時から自分の棋譜はすべて手元に残している。そしてそのほとんどはノートを見返すまでもなく頭の片隅で覚えている。特に負けた将棋はなかなか忘れられない。
奨励会2級から3級、3級から4級、さらに4級から5級へと滑り落ちていく中学時代の塗りつぶしたくなる棋譜の数々。それらは静香の頭の中に残ったままで、貴重なメモリーを食いつぶし削除されない。ノートにバックアップが残っているのでいい加減空き容量を増やしたいのだけれど消えない。
これらの悪手連発の対局のひとつひとつも、今の二冠、女流七冠の獲得に繋がっていると考えることにした。
でもこれらは静香自身と対局相手だけが知っていること。だから極々一部の人しか知らない。だが千夜は違う。拭い難い黒歴史が今もネットの海に泳いでおり世界中の人が視聴することができる。
L.A.で行う3日間のライブ。その初日のゲストはダニー=キアネーゼ 。R&Bでここ20年ぐらい第一人者と言われる超ベテラン。他のジャンルの音楽もそうだけど、R&Bも現代では複雑に進化している。他のジャンルの音楽の影響を受けたり融合したりすることで、多様なサブジャンルが産まれている。
その中でダニーは広い範囲をカバーしている。その経歴はトラディショナルR&Bに始まり、ソウル、ファンク、コンテンポラリー、ネオ・ソウル、オルタナティブ。そしてそれ以外の両手では数えきれないサブジャンルを幅広く網羅している。
『R&Bとはリズム・アンド・ブルースのこと。それでいいじゃないか』
ダニーが言うならそれでいいよね。十二分な実績が誰も彼もを納得させる説得力になっている。
そんな大物がこんな駆け出しアーチストのゲストに参加してくれる。打診する事務所(プロモーターか?)もそうだけど、快く即答してくれたらしい。マネージャーを通してだけど、『初日なら大丈夫。次の日にはヨーロッパに出発するからちょうどよかった。才能ある若手とのセッションは楽しみ』とのこと。その時点でかなりハードルが上がっていた。
『今日はよろしくお願いします』
リハが始まる前、千夜は楽屋に挨拶に行った。随分間を置いた再会に千夜が緊張しながら挨拶すると、朗らかにそのダニーに返された。
『久しぶりだね。活躍ぶりをいつも聞いているよ。早速だけど、今夜の曲目に「Nobody Knows」を追加しないかい?』
ベッシー=スミスの名曲 「Nobody Knows You When You’re Down And Out」のこと?
当然ながら千夜がライブの本番で使う曲は事前に決めてある。そして時間が余ったり、何らかのトラブルで曲を変更する必要があったり、普段しないアンコールを断れなかった時のための曲も決めている。
千夜はライブでは自分のパフォーマンスをメインセットで全力で行うべきだと考えていて、アンコールをしない事を公言している。お客さんが物足りなそうにしている時はメインセットに力をかければよいのであって、儀式的に一度引っ込んでまた出て来ることにはあまり意味を見出せない。ダブルアンコール(アンコールで舞台から降りた後、再びアンコールに応じること)とかおかしくない? それを楽しんでくれる観客はもちろんいると思うけれど、自分のパフォーマンスではしない。だが念には念を入れておく。
『チヨはエンプレスが好きなんだろう。ハイスクールの動画を見たよ』
ものすごく恥ずかしい。『R&Bの女帝』、そう呼ばれたレジェンドプレイヤー、ベッシー=スミス。静香が高校の文化祭で彼女の曲を歌った動画は今もネット上で見ることができる。
『ああっ、あれは若気の至りで』
あれは千夜が聞いても惨い出来栄え。あれは高校の文化祭、当然無料だから許された余興。それをこの世界の第一人者に聞かれてしまったのは恥ずかしすぎる。千夜にとってはデジタルタトゥーと言うべき代物があれだと思う。でも事務所は消してくれないんだよね。当然だけど。
千夜が活動し始めた初期の動画は結構閲覧数が多い。例えばダブル主演とは名ばかりで、由美ちゃんに頼り切りった素人丸出しの映画。恐ろしいことにあれの英語版がプラスドムーブに上がっている。もちろん有料だ。
将棋と同じように己の過去と向き合うのもプロとしての大事な仕事。千夜はある時、何度も自分にそう言い聞かせた後で英語版のレビューを見た。一番支持されているレビューが一番上に表示される。
『英語版はプロの声優が吹き替えているので、へたっぴ演技との差が大きい。是非日本語を勉強して、後の大女優の汚点を目の当たりにして欲しい』
自分はもうプロとして失格でもいい。もうレビューは見ない事にする。千夜はそう心に誓った。とか言いながらまた見てしまうに決まっているわけだが。
自分の世界にショートトリップしていたが、即座に現実に戻る。
『いいですね。私も大好きな曲です』
『よし、決まりだ。いいライブにしよう』