263.ペンギンシアター(2)
舞台は直接観客にストーリーを見せるので、物語は基本的に時系列通りに進む。でも映画は後で編集するので、基本的に撮影はセットごとに行われる。ひとつのセット(あるいはロケ)で撮れるシーンはまとめ撮りするのが当たり前。これには頭の切り替えが必要だ。
初めて映画を撮る時には戸惑いもあったけれど、随分前に千夜はこのやり方に慣れたつもりだった。でも経験を積んだせいか、今は「慣れた」と思った頃よりも自然に頭を切り替えることができる。この切り替え方はドラマやCMにはもちろんバラエティもそうだし、時系列で進むライブや舞台、将棋、さらには勉強にも活かせる。
将棋だと複数の展開を考えたり、多面指しをしたり、あるいは解説をするときなどに使える。静香が最後に解説したのがいつかは思い出せない……もしかすると将棋祭りの大盤解説が最後かもしれない。おこがましくも二冠(+女流七冠)と呼ばれる身になった以上、将棋界への貢献も当然ながら求められるだろう。
「Cut! Good job, Chiyo」
邪念はいろいろあったけれど演技には出なかったようだ。
『ありがとうございます』
『これも一発OKだ。これまた予想以上の演技だよ。このまま次のシーンへ行こうか』
撮影は滞りなく進んだ。それはもちろん千夜だけの手柄ではない。千夜も含めて全員が入念に準備していたからだ。段取り八分という言葉があるけれど、映画だってそう。
1本の映画を撮影するためには当たり前だけど時間が必要だ。今回のように100分のコメディであれば1~2か月は必要だというのが定説。撮影後の編集や効果音やBGMを入れる、いわゆるポストプロダクションを含めると半年から1年かかる。
実際のところハリウッドでは、丸1日を撮影に費やしてもそれを上映時間に換算すると5~10分にしかならないという。少なすぎるって? いやいやこれでも多い方。実際にはリハーサルやセットの準備中に撮影はできないから、そういうのを含めれば撮影工程だけでも時間はもっと必要。
普通に考えてもわかるようにコメディはアクションのように大がかりなセットやスタントが要らないし特殊メイクも不要。さらにこの映画はキャストが少ないからスケジュール合わせも容易なので比較的集中して撮影期間を短くすることができる。
だがコメディゆえに時間がかかる部分もある。それはタイミング。コメディの場合、セリフも表情も仕草もタイミングが命。観客に響く理想のタイミングを意図的に作り出すのは難しい。それを計算して作り上げるコメディアンは凄いと思う。
また他のジャンルよりもコメディの方が即興を好む監督やキャストが多いと思う。実際、千夜自身もそのひとりだ。そして即興は解釈違いも発生しやすくなりリテイクになりやすい。だがそれは作品の質を上げるためには必要なこと。リテイクを繰り返すことで良い作品が産まれる。
そして撮影に限らないけれど、現場ではトラブルの種に事欠かない。キャストの体調不良、撮影スタッフ不足、スタジオのダブルブッキング、天候不順、ロケ地での野次馬の排除、セットの破損、機材トラブル、意見の相違による対立、繰り返されるリテイクへの不満、上からの予算圧縮要求。
それらが積滞していくと状況はどんどん悪くなる。
それらをなんとかするのはリーダーの責任。つまりプロデューサーや監督に任せればよい、というのは思考放棄だ。責任者だけでなくチーム全体で対応した方が問題はよりスムーズに解決できる。
実は俳優としては世界に名が知れた人だけどメガホンを取るのは初めて。監督としてのデビュー作だから慣れないところがあるはず。だから千夜もできる限りのことはするべき。この作品の一番の問題は主演女優のスケジュールという既に自分が足を引っ張っているのだから当たり前のこと。
だから千夜は自分の役割を一女優としての枠内に抑えることはしない。できるだけ自分の役割を拡げて考える。主演女優の役割に加えて全力で周囲をフォローし続ける。演技では共演者のミスをアドリブでカバーする。相手役のジョシュはもちろん、出演時間は短いけど役者としても重要な役どころを担う監督も対象だ。
彼らと紡ぎあげるひとつひとつのシーンが集まって映画ができる。そして今撮影中のシーン、それぞれが映画全体でどういう意味を持っているかを意識しながら演技を続ける。
もちろんカメラが回っている時間だけが千夜の仕事ではない。休憩時間や雑談のタイミングでもチームワークを高める努力を続ける。撮影中でも違っても、なにかトラブルがあれば、今できる最高の代替案を即座に提案する。そのシーンなら照明が足りなくても、雨が降っていても、それを効果的な映像にする方法があるのでは?
千夜が小さな努力や工夫を積み重ねれば、その熱気は共演者や監督、他のキャストやスタッフにも伝わっていく。チームの結束が強くなり、状況はどんどん良くなっていく。トラブルにも負けない強いチームができる。
そうすれば撮影はどんどん進むし、想定よりも良いシーンが撮れたと監督やプロデューサー、原作を書いた大御所の小説家も満足してくれる。撮影が早く終わればいろんな経費も浮くし、スタッフも拘束時間が短くなる。これで観客動員数が良ければスタッフ全員にボーナスが出るのだけど、こればかりは千夜にはわからないので人事を尽くすしかない。
この方法は将来医療チームを運営する時にも使えるはずだ。現代では臨床はもちろん研究もチームでこなす必要がある。天才がひとりいても機能的なチームにかなわない。もちろん天才がチームにいれば話は早いけど、いなくてもチームを作れば少なくとも前に進むことはできるはずだ。
…………すいません、自分に良いように言ってしまいました。実はすべて千夜自身の責任なのです。長編のコメディ映画の撮影には1か月は必要というのがセオリー。ゴールデンウィークに1週間撮影したけれどあと3週間は必要。
それなのに千夜はアメリカでの滞在期間を2週間で予定を組んでいる。念のため1週間延長することも想定していたがそれでも3週間。その枠内に収めるため、千夜自身のために必死に頑張った。ただそれだけのこと。
幸いなことにこの必死の努力は報われつつある。今のペースでも当初の滞在期間、2週間の枠内にはおさまるはず。徐々にペースが上がっているから、最後の数日はライブに集中できるかもしれない。
千夜はそう考えながら次のシーンを演じ、そして一発でOKを貰った。