255.鬼神(17)
普及は大事。だが無理なものはやはり無理。
昨日の夕方から静香が事務所に着くまでの間、つまり静香が鋭王のタイトル戦を制してから丸一日と少しの期間、多くの連絡が鎌プロの事務所に寄せられたらしい。
普通のお祝いからお仕事のオファーまで、拡大された千夜担でも手が足りないぐらいのお話を事務所で対応していたと先ほど聞いた。仙台までの新幹線の中も、その後の夜行バスの中も、明石さんの手がずっとスマホから離れなかった理由はそれか。
だがこう見えても静香は結構忙しい。時間割だって小学生みたいに月曜から金曜まで5コマが埋まっている。小学生と違うのは1コマが45分ではなくてその倍以上あること……
静香は講義欠席者の常連で、おそらく欠席率はダントツに高いに違いない。出欠だけで単位が決まるような科目があれば静香は確実にその教科を落としてしまうだろう。医学部だから1単位落としたらその時点で留年が決まる。
もう少し楽な学部に進学するべきだったかもしれないけれど、医者を志した以上医学部以外の方法がないのだから仕方がない。棋士みたいにプロ編入試験とかないからね。
東大には進振という制度があって、2年生まで(教養学部)の成績で、3年生以降進学先が決まる。ただ医学部は理科三類から、法学部は文科一類から、経済学部は文科二類から進学するのが普通。
でも成績次第で他の学部に進学することも可能だ。医学部には他の理系、稀だけど文系からでも進学する人がいる。でもその時点で医者になれるわけではなく養成機関に入るわけだから、将棋に例えれば三段編入試験みたいなものか。
話が横道にそれてしまったけれど、ともかく静香は勉学に忙しい。
そして当然棋士としての対局がある。5月の残り対局は女流棋戦が二局。片方は白銀戦のB級で、もう一方が女流王偉の防衛戦。どちらもきちんと対策をしておく必要がある。今までもそうしてきたけれど、これからは女流七冠に加えて鋭王の看板も背負って戦う必要がある。この状況でさすがに負けられないよね? これまで以上にプレッシャーを感じてしまう。
そして5月が終われば地獄の6月が静香を待っている。
6月の初戦は御厨先生への棋神戦第一局だ。静香は女流を含めるとタイトルマッチに慣れていると思うけど、御厨先生とタイトル戦で対局するのは当然初めて。五番勝負なので最短なら第三局で終わるけどもつれ込めば第五局まである。当然勝ちたい。でも御厨先生だよ? 現在は名人を含めた三冠なので、客観的に見て順位戦でB1に落ちた海老沢先生よりも強い。勝てれば最高だけど、負けるにしても三連敗で負けたくはない
御厨先生とのタイトルマッチと並行して他にも重要な対局が続く。王者戦の挑戦者決定トーナメントの次戦は準決勝で相手は櫛木竜帝。つまり三冠保持者相手の対局が続く。もし勝てればの話だけどその後には決勝もある。
そして星雲戦本戦の第11回戦。静香は昨年も優勝しているので一局勝てば決勝トーナメントに出られる位置にシードされている。昨年度の優勝者が決勝トーナメントに出れないのは恥ずかしすぎる。さらに言えば静香は一部界隈では早差しの女王というあだ名を拝命している。ここのところ短期戦では負けてないからだけど、これもプレッシャーになる。
そしていよいよ順位戦も始まる。静香のB1のデビュー戦の相手は国分先生。重鎮といって差し支えないベテランで、つい3年前までタイトルをお持ちだったし昨期まではA級にいらした。
B1はこれまでの順位戦と違って定員13人の総当たりなので、このクラスに在籍しているメンバーとは全員対局がある。今すぐではないけれど、海老沢先生や櫛木さんとも当たる。しかもA級に上がれるのはふたりだけなのにB2には3人落ちる。辛すぎない?
こうした錚々たる方々と公式戦で真剣勝負ができるというのは将棋指しとしてとってもありがたいことだ。でも対戦相手に応じた準備は必要だし、体調を整える必要はあるし、対局が終われば当たり前に疲れる。女流も含めタイトルマッチは日本各地で開催されるから遠出になることも多いし、前夜祭だってある。
……鋭王戦の結果次第ではここに第四局、第五局が入っていたかもしれないのか。
あっ、鋭王と言えば就位式があるはずだ。連盟や棋戦スポンサーなどの関係者はもちろん、一般のファンの方もいらっしゃる。その日程調整も必要になる。
6月が終わって7月になれば夏休みがあるだろうって? 何をおっしゃっているのかな? 7月にあるのは試験です。夏休みは8月と9月。その期間は大学に行かなくて良い。なんて素晴らしい。早く夏休みになればいいのに。でも静香の夏休みは、今も主役不在で続けられている映画の撮影のために渡米しなければならない。
はい。どれもこれもものすごく贅沢な悩みですね。
「で、調整した結果がこちらです」
空いた鋭王戦(前夜祭含む)のところに取材がびっしり入っている。平日なので本当であれば講義に出たいけど難しいようだ。そう思いながら予定表を見ると、静香はその予定の中に見慣れないものを見つけた。
「あの、この署名というのは?」
「それは天道さんが鋭王になったので、色紙や免状にサインを頂きたいという話が連盟から来ています」
西さんが申し訳なさそうに静香に告げた。
これまでも「迅速果断 女流七冠(あるいは七段) 天童静香」などと書いた色紙が連盟から販売されている。だから色紙はわかる。
「免状? あれは会長と竜王と名人ですよね?」
免状というのはアマチュアの段位の持ち主にお渡しするもの。つまり将棋が強くて熱心なアマチュアの方だ。普通の会社で言えばロイヤリティの高いヘビーユーザー様。免状はそれなりのお値段がして、それなりに連盟の収入にもなっている。
「いや、そこに他のタイトルホルダーの署名が並ぶバージョンもあるんです。天道さんがタイトルを獲る前から問い合わせが相次いでいるそうです」
え? 本当? 静香は四段になってもう3年以上経つのにそれを知らなかった。静香も千夜もサインを書く機会は多いけれど、数をまとめて書くことは実はそこまで多くない。ファンクラブのプレゼントやサイン会の時ぐらい?
「これでも相当に絞ったんです。講演やアマチュアの大会への出席、大盤解説の依頼なども本当に多いですし、これまで参加してなかった非公式戦への出場依頼を断るのも大変でした」
西さんが申し訳なさそうに言う。これ以上あまり聞かない方が良さそうだ。
普及は大事。本当に大事。それは本当。でも静香には時間が足りないのでできる範囲でご容赦頂きたい。