254.鬼神(16)
医学部で学ぶことは多岐にわたるけれど、公衆衛生学、その中でも特に疫学・生物統計学にはその名前の通り数学の要素が多く入り込む。
1850年代、ジョン・スノウは統計学を用いてロンドンで蔓延するコレラの原因を突き止めた。ほぼ同じ時代、フローレンス・ナイチンゲールも統計学を用いてクリミア戦争における病院内の衛生状況を改善し死亡率を劇的に引き下げた。
今や新薬の臨床試験はもちろん、ありとあらゆる臨床試験や疫学には統計は欠かせない要素だ。
『トムソーヤの冒険』で有名なマーク・トウェインは1906年にイギリス首相だったディズレーリの言葉として「嘘には三種類ある。嘘、明らかな嘘、そして統計」という言葉を大衆化した。
統計は非常に重要だがそれが本当に正しいのかは常に疑う必要がある。
後に映画化され有名になった「1984年」、ビッグブラザーが出て来る奴を書いたジョージ・オーウェルの他の著書の中に、「A Nice Cup of Tea」という有名なエッセイがある。1946年に夕刊紙に掲載されたもので、完璧な紅茶を淹れるためには11のルールがあるという。
茶葉の産地から始まって、ティーポットをあらかじめ温めておくなどの記載があり、10番目に先に紅茶を注いだ後にミルクを入れるべきだ、というものがある。これは本当だろうか?
ロナルド・フィッシャーというやはりイギリスの統計学者が実験することを提案した。だがどうすればジョージ・オーウェルの10番目のルールが正しいことが実証できるだろう?
経歴も年齢も性別もランダムで選んだ5人に、紅茶が先のものと牛乳が先のものを3杯ずつ飲ませて、より美味しい3杯を並べてもらい、5人のうち3人が多く選べばそれが確認できたと言えるだろうか? そもそも入れる順番によって味が変わるのか?
「3人で3杯ずつだと少なすぎると思います」
ひとりの男子生徒が答えた。
「では君はどれくらいだと適当だと思う?」
教授が訊ねるとその生徒が答えた。
「100人で10杯ずつぐらいは必要だと思います」
「ひとりで20杯も紅茶を飲めば、味なんてわからなくなると思うよ。作る方も大変だ」
そこから話はサンプルの話に移った。
「サンプルの数が十分なのかはもちろん重要だ。そしてサンプルの抽出方法が正しいのかも大切だ。サンプリングが偏っている統計はまるで役に立たない。例えば」
そこで教授と静香の目があった気がした。多分この後当てられてしまう。
「現在将棋の棋士は170人程度いる。そのうちタイトルホルダーは何人いる? 天道さんはわかるよね」
「4人です」
簡単な問題でよかった。聞かれていないので答えないけれど静香は名前とタイトルまで言える。御厨名人(棋神、王者)、櫛木竜帝(王偉、棋奥)、小田桐玉将、そして残りのひとりはかの天道鋭王です!! 口には出さず頭の中で叫ぶぐらいいいでしょ?
去年、小田桐先生は御厨先生から玉将を奪っている。もう一次予選は終わっているけど、静香は昨季本戦リーグに辿り着いたけど追い出されたので二次予選から参加。二次予選も始まっているけど静香はシードされているので対局はまだ。
「そのうち男性に限れば170人いて3人しかいない。だから1.8%ぐらいかな? 一方女性は全員、つまり100%がタイトルホルダーだ。だから将棋は女性の方が有利です。こんな事を言ったら笑われてしまう」
ああ。まさか自分が講義のネタにされてしまうとは静香は思っていなかった。でも確かにいびつに見えるよね。そして現在の奨励会で女性は今は1級が最高級なので奨励会コースの女性四段はしばらく産まれそうにない。
一方女流棋士の今泉先生、向田先生、大沼先生、蒔苗姉妹、彼女たちはここ最近棋士相手に勝ち越しているはずなので、編入試験を受験してもおかしくないところまで来ているはずだ。
だから静香の次の四段は女流から編入試験コースだと思う。もちろん編入試験は四段に昇段して間もないイケイケの若手棋士と当たるから、なかなか厳しいけれど。
お昼は美桜と合流して3人で食べ、純子のノートをコピーしてから、午後の3コマを終えると6時半になる。100分超×5コマが月~金埋まるのは死ぬ。昼休み以外の休み時間は10分しかない。遅れて来る先生もいるけれど。
「静香は家に帰るの?」
純子はいつも元気だけど、3年生になってからは疲れた顔を見ることも多くなった。今は机に突っ伏しているから表情は見えないけど。
「うんにゃ。事務所に呼ばれてる。ばっくれようかな?」
「これからレッスンとかあるの!?」
純子が驚いた顔で起き上がり静香を見た。
「さすがにそれはないはず」
今日は静香が鋭王になったことの取材対応などの話し合いだけで終わるはずだ。今日は……ね。
静香はやおら立ち上がって、手足を思いっきり伸ばした。そして小さく叫ぶ。
「ぐあっ」
ふう。
「ちょっと気合入った。行ってくる」
「いってら。私は帰るわ」
そう言う純子と一緒に大学を出る。5月でも太陽はもう沈みそう。冬だったら真っ暗だろう。家に帰る場合はJRお茶の水まで歩いているけど、今日は事務所に行くので迎えが来ているはず。
「純子も駅まで乗る?」
純子は地下鉄を使って通学している。
「いや、ちょっと体を動かしたいから歩くわ」
ふたりは校舎の前で別れた。
マーク・トゥエインは1910年没。ジョージ・オーウェルは1950年没。
どちらも没後70年以上経過しており著作権が失効しております。
この程度だと大丈夫だと思いますが一応。
『1984年』は映画でも有名ですが、村上春樹『1Q84』のネタにもなっているそうです。
あと来週は休載します。