248.鬼神(10)
4月後半に怒涛の対局をこなした後、千夜は渡米した。西海岸、ロサンゼルス、ハリウッド。
事前に菱井物産の高跳さん(本社に戻った)からビジネスジェットをご提供頂けるというお話もあったけれど断った。
今回は楽器も無いし、海を渡って移動するのは静香とチーフマネージャーの西さんのふたりだけ。なお明石さんは統括マネージャーへとスピード出世した。統括マネージャーとは言っても担当しているのは千夜ひとりだけ。
「千夜担の規模が大きくなり過ぎたんですよね。いや、人数は他部署と兼任している者や外から来てるスタッフも多いんです。でも頻繁に大きなお金が動くので統括クラスじゃないと務まらなくなったんですよね」
そう西さんが言っていた。明石さん自身の希望で引き続き現場にも来てくれるけどやはり机仕事が増えたようで、特に海外だと西さんが一緒の場合が多くなった。
なお「千夜担」というのは千夜が勝手に頭の中で命名した自分をサポートしてくれる鎌プロの皆さんに付けた名前なのだけど、どこかのタイミングで口を滑らせてから、半ば公式化してしまい今や鎌プロ社内はもちろんネットでも普通に使われてしまっている。
学業や将棋にかまけているにも関わらず、多くの人にサポートしてもらうのは申し訳ないな、と思うのだけれど、仕事が増えるのは贅沢すぎる悩みです、と西さんに諭されたことがあるので、そういうものかと開き直ることにしている。
千夜の相手役は若手スターとして確固たる地位を築いたジョシュ=オースター。かつて共演したこともあるので非常にやりやすい。というかジョシュのようなスター相手に、千夜の超わがまま「私の撮影はこの1週間だけ、残りは夏休み。私の出ないところは、あんたたちだけでちゃんとやっててね」を押し付けているのは申し訳なさすぎる。
なのにジョシュも他の共演者やスタッフたちも千夜に優しい。
「良い作品を作るために多忙なチヨに日本から来てもらっている。チヨは謙虚すぎるよ」
ジョシュはそう言ってくれるけど気にならないではない。千夜は短い在米期間中にできるだけの事をして、共演者やスタッフと抱き合って日本への帰路についた。
早朝に帰国した日から講義が再開される。空港で鎌プロの新人からあらかじめ渡していた学校の荷物を受け取って、そのまま大学に行く。ファーストクラスなのでよく眠れたが、それでも時差調整が少し負担。
静香は出来る限り講義を同じ日にまとまって取得していた。そして空いた日を作ってその日に棋戦を入れるようにしていた。極論、芸能活動は夕方から夜にすることもできる。例えば今晩だって由美ちゃん(鳥居由美)が主役を務めるドラマのゲスト出演の撮影がある。セット内の撮影だけ、かつ由美ちゃんも千夜もNGを出さない前提であればこういった無茶もできる。でも棋戦は無理。
だが3年生になると専門科目が増えたためそれが難しい。基本月曜から金曜まで毎日なにかしらの講義や実技がある。
大学側からの配慮で講義は、出席しなくても映像を見て試験を受ければ良いようにしてもらっているが、それでも難しい。そうやって無理矢理作って対局をこなしている。本当にやむを得ない時は実習も休まざるを得ないけれど、できるだけ両立をしたいと考えている。
3年生になってから静香には重要な対局が多い。鋭王戦では挑戦者として今の所2勝。女性で初のタイトルがかかっているけれど、海老沢先生は第2局は途中から捨てていたと思う。静香から3連勝するメドがあるのだろう。第3局以降、棋界でも指折りの海老沢先生の研究手が展開されるのだろう。
静香も研究しておくべきだろうか? だがそんな時間がない。そして戦略的にも無駄な気がする。海老沢先生にとって第3局は先手だし、渾身の研究手があるのかもしれないが、第4局は静香が先手。さらに第5局は振駒になるので先後どちらになるかはわからない。
そう考えると第3局でいかに静香にダメージを与えるか。それが海老沢先生の戦略のような気がする。もちろんわざと負けるとか、全力を尽くさないなんてのはあり得ないけれど、素直に指して負けることで心理的なダメージコントロールを行うのは戦略としてはアリだと思う。
ただ自分でもまだ納得できないところがあるのは事実。静香の中でもまだ線引きが微妙だ。
これは一種の認知的再評価を実践する機会だと考えるべきかもしれない。認知的再評価とは、ある出来事や状況に対して、その意味や解釈を別の視点から捉え直し、感情的な反応を変える心理的な手法だ。
つまり第3局で海老沢先生が難解な研究手を繰り出してきたとすると、これは海老沢先生の研究手法を身をもって勉強する機会だと位置づける。勝ったらもちろん良いし、負けても自分の技量を上げる機会を得たと考える。これによって静香は勝っても負けても自分の成長に役立ったと考えることができ、引きずらずに第4局に臨むことができる。
第4局だって、後手からの研究手を体験する結果と考えれば、仮に負けてもカド番だとか余計なことを考えずに第5局に挑むことができる。
よし、鋭王戦はそれでよし。後は櫛木さんに勝って挑戦者になった棋神戦だ。御厨先生に挑む棋神戦は静香にとっても思い入れのあるタイトルだ。師匠である大江九段がかつて3連覇している。残念ながら師匠は静香と入れ替わるような形で引退してしまったので、公式戦では直接対局することができない。
だから棋神のタイトルを獲れば、それが師匠への恩返しになるのではないかと思う。海老沢先生はもちろん怖いけれど、やはり御厨先生の方が格上の相手。どちらも逃すことになるかもしれないが、やはり御厨先生との対局を意識してしまう。
その御厨先生と静香は、タイトル戦の前に王偉戦の挑戦者決定戦で対局する機会がある。どちらが櫛木王偉に挑むかを決める対局なので、ちょうど棋神戦の裏返しのような関係だ。
これは自動投稿なので「落書き」は後日消しておきます。