247.鬼神(9)
天道静香が定跡を外れたところから盤面は若干自分に有利になった事を櫛木蒼は感じた。それはそういう作戦だから当たり前。先手はこの序盤が終わった段階から自分の持ち時間を削るのが目的だからだ。
蒼に限らずどのような棋士でも、相手の研究手に対応する方法は決まっている。乱暴に分けると、このまま盤面有利な展開を続けるというのがひとつある。もちろんこの局面に先手が誘導しているわけだから、当然いくつか設置されている罠を上手くよけ続ける必要があるため、一方的に時間を使ってしまう可能性がある。
もし上手く行けば、盤面を有利にしたまま中盤を終え、そのまま終盤に持ち込むことができる。一方当然ながら罠にかかってしまえば、残り時間が少ない状況で、不利な盤面をひっくり返さなければいけなくなる。
もう一つはさらに盤面を複雑化させる方法だ。自分もできるだけ不利にならないような状況で、相手の想定外の手を指す。そうやって相手の研究範囲から外れ、まだ誰も見たことのない局面でぶつかり合うことになる。
早い段階で相手の研究範囲を出ることができれば、相手の有利な状況も消すことができる。ただどうすれば相手の研究範囲から逃れらられるかはわからないし、逃れた時点で盤面が有利かどうかもわからない。
どちらの作戦を選ぶかは状況次第と言うしかない。これぞという手が見つかれば後者を選ぶべきだし、見つからなければ前者で進めるのが一般的なセオリー。
そこで重要なのは相手の研究範囲をいかに上手く外れるか、そして外れたことを見分けられるかどうかだ。研究手は仕掛ける側も受ける側もどちらにもリスクとリターンがある。それが蒼の、というか大抵の棋士の考え方だ。
研究手の範囲内にいる限り、盤面が有利でも安心できない。相手はその後の展開を当然考えた上で不利な状況を作り出しているわけだからだ。間違わないように深く考える必要があるため、当然時間的にも不利になる。
逆に研究手を使った側から見れば、相手に研究範囲外から外れたことを知られるのはそのメリットを失うことを意味する。もし研究範囲内の間ノータイムで指し続けた側が、いきなり長考を始めたら研究手を脱したと気が付くだろう。
だけどこの対局では必ずしもそうだとは言えない。対局相手のことを考えなければならないからだ。
天道さんは元々早差しなので、研究範囲を抜け出した後も早指しを続ける可能性がある。そうなるとそれこそ終盤までプレッシャーを感じながら指さなければならない。
さらに言えば、天道さんは一旦考える振りをして時間を使い、研究を脱したかのように見せることもできるはずだ。彼女はほとんどの棋戦で持ち時間を余らせている。長考してこちらが気を抜いた直後に、あらかじめ仕掛けられた罠が発動する可能性もある。
ならばできる限り最善手を選択することに専念した方が良いだろう。対局前から蒼はそう考えていた。局面はやや自分が有利だと思われるが、その判断が正解なのかはわからない。一方で持ち時間は確実にじりじりと削られている。
「持ち時間は?」
蒼は記録係に聞いた。
「先手、天道七段は4時間。後手、櫛木竜帝は2時間24分です」
もう1時間半以上使っている。ではなくてまだ5/8残っていると考えるべき。天道さんがまだ1分も使っていないのは気にしてはいけない。こういう理不尽な人だというのはプロになる前から知っている。
蒼は6筋から攻めることを迷った末に自重し、手堅く先手の4四の歩を銀で払った。するとノータイム、この場合は1分以内という意味ではなく、5秒もしないうちに先に6筋の歩を取られた。ここは取るしかない。同銀、同銀、同桂、そして交換した銀を自陣に打ち込まれる。怒涛のように手が進む。
まだ有利? もう互角?
この理不尽な相手にそういうことを考えるだけ無駄。天道さんは存在自体が理不尽な人だ。とても綺麗でとっても魅力的で、勉強や演技や音楽など多くの才能に恵まれていて、しかも自分より将棋が強い。
蒼自身、中学1年生で三段リーグを勝ち抜き、中3で史上初の6組から竜帝という将棋界が誇る2大タイトルホルダーの片割れとなった。その翌年には月影先生から王偉を、御厨先生から棋奥のタイトルを奪った。それらをすべて最年少で成し遂げた。
『世間様では舞鶴千夜さんが凄くもてはやされてますけど、将棋界の宝は櫛木先生ですよ。私らはようわかってますから』
『確かに御厨名人は天才です。でも櫛木竜帝には劣るでしょう。天道七段? 彼女は女流棋士としてよい広告塔だと思います』
そんな話を聞くたびに蒼はうんざりする。彼らは蒼と天道さんの直接対局の結果を知っているのだろうか?
勝ちたい。勝って棋神のタイトルも御厨名人から引っ剥がしたい。この一局に勝てれば御厨棋神にも勝てるはずだ。そうすれば天道さんも少しは僕の事を見直してくれるだろう。
天道さんは何も知らない。思えば三段リーグの時も蒼が既に昇段していたことを知らなかった。蒼が中学を卒業したのは去年なのに、今年だと思っていた。それもこれも蒼に興味が無いからだ。違う、天道さんに興味を持ってもらえないほど蒼が弱いせいだ。
「持ち時間は?」
「先手、天道七段は3時間43分。後手、櫛木竜帝は16分です」
盤面は完全に劣勢になっている。こちらがしかけた逆転の罠が簡単に躱される。渾身の王手が、たった一つしかない逃げ道へとノータイムで逃げられる。
「負けました」
蒼は頭を下げた。
「ありがとうございました」
彼女の、まったく感情を感じさせない声が蒼の頭の中に響いた。
245話で静香は櫛木がこの春に中学を卒業したと思っています。本当は去年なのですが、作者のミスを主人公に押し付けました。この対局までのどこかで、静香がそんな風な発言をしたのだと思ってください。
またリアルでは関西将棋会館の移転に続き、東京の将棋会館も引っ越しします。このあたり本作では時間軸が違うとご認識ください。
で、私事ですが年末年始は帰省するのでお休みします。今年もいろいろありましたが本当にありがとうございました。
いつも拙作を読んで頂いている皆様、レビューを書いて頂いた皆様、感想を残して頂いた皆様、ブックマークして頂いた皆様、評価を頂いた皆様、誤字脱字報告をして頂いた皆様。いつもいつもありがとうございます。
誤字脱字報告はChatGPTで校正かければよいのですが、それはやってはいけない気がしています。
で、根松年始期間中、私の過去作品をご覧頂ければ嬉しいので宣伝しておきます。
この作品懐かしい。知らない。あるいはつまらないから読むのを止めた、と言った方ももう一度読んで頂ければ嬉しいです。
なお各数値は12月22日現在のものです。今回この後書きを書くにあたって調べたところ、結構昔に完結した作品でもポイントが思った以上に伸びてたりするのを見てとても嬉しいです。
音楽室と体育館 全169話 942pt
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バレーボールをこよなく愛する音楽教師の主人公最強もの
ミスターフルベース 全16話 558pt
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高校球児が甲子園で起こす奇跡のワンプレーのお話
夏の潜水艦 全23話 206pt
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高校野球もの。左利き投手が好きな子に振り向いてもらうためにアンダースローに転向するお話
この前の休載中に書いたリハビリ作品です
宰相の失脚 全17話 184pt
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ナーロッパの成り上がり系のお話
リージア顛末記 全14話 150pt
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ナーロッパ世界で国王が4人の王女のうち、最も王配として優れた婚約者を連れてきた娘を後継者にしようとするが……
桜の下の彼女 全12話 104pt
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毎晩、幼馴染の女の子に酷いことをしてしまう夢を見る男の話。実は結構自信作だったりします。
以上です。今年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
ちゃんと再開できますように。