246.鬼神(8)
静香は自分を枠に嵌めるのがあまり好きではない。だからと言って手を抜くつもりはない。
将棋の戦法で言えば大きく分けると居飛車と振り飛車があるが、AIは居飛車が有利だとしている。もちろんそれはAI同士が指す場合だから人間で指す場合にも当てはまるとは言い切れない。いわば参考だけど、だが決して無視することはできない差がそこにはある。
音楽でも一般受けしやすい曲と、ファンからすら支持されない曲もある。極論だけれど例えば千夜がライブをしたとする。千夜は事前に歌う曲を告知しない場合が多い。だからと言って、最初から最後まで日本を含む世界の民謡だけをアカペラで歌い続ければ酷評されるだろう。それを避けるためには、チケット販売前からコンセプトを発表しておくなど、ファンに向けた配慮が必要だ。ルールではなくてマナーの問題。
ルールを守れば反則にはならないけれど、マナーが悪ければ相手に嫌われてしまう。自分のファンに嫌われて良いことなどひとつもない。だから例えば……
舞鶴千夜がアカペラで歌う世界の民謡
このタイトルでチケットを売り出したならば、来場したファンもなんとか納得するだろう。売れるかどうか、満足してもらえるかどうかはわからないけれど。
医療もそうだ。
静香は台湾で中医(漢方医)の大家である楊建良老師からその思想を聞くことができた。あれから台湾に行ったことはないし、ご高齢の楊老師が来日されたことも無い。だが、メールやチャットなどでやりとりは続けている。
現代の医学においても漢方薬を用いる状況は決して少なくはない。だが静香が将来手がけたい治療法が未確立の難病を相手にする場合、より枠にとらわれないより多くの知見が必要だと思う。この場合も患者やその家族に対する配慮は当然必要なことだ。
将棋に話を戻す。
AIの判断で居飛車が有利だからと言って居飛車ばかりを指すのはあまり良くはないと思う。確率だけを物事を判断するのはいけない。振駒で後手になったらそこで投了するか? 女性に産まれた身で棋士を目指すことを諦めるか? いや、また極論になってしまった。
ともかく、どのような状況であれ自分の取り得る手段を減らすべきではない。だからと言って居飛車の研究を疎かにするのはまた違う。AIが居飛車が有利だと判断しているのは決して無視することはできない。
そして相居飛車の場合、角換わり、相掛かり、横歩取りなどが主な戦法になるが、初手が7六歩の場合は相掛かりが無くなる。そしてより重要なのが2手目。後手が8四歩か3四歩のどちらを指すかで戦型をどちらが選ぶかが決まる。
あくまで現在の主流の戦法に限った話だし、例外はいくらでもある。繰り返すまでもないが確率を重視過ぎるのは良くない。あくまで一般的な場合だ。
後手が3四歩の場合、横歩取り、雁木、一手損角換わり等が考えられるがそれは後手に選択権が与えられる。逆に8四歩だと角換わり、矢倉、そして初手で消えて無ければ相掛かり。それは先手が選ぶことができる。
残念なことに後手が選ぶことができる、横歩取り、相居飛車雁木、一手損角換わりは先手の方が若干有利とされている。しつこいがこれも参考情報に過ぎない。棋力に差が無くても、その後の展開で覆すことのできる適度の差でしかない。でも無視することはできない。
だからと言って先手に戦型を決めさせると、角換わり、矢倉、そして消えていなければ相掛かり、これらに絞られてしまう。
もちろん棋士によって得意不得意がある。でも先手であれ後手であれ、このあたりの戦型は熟知しておかなければならないことだ。そしてこれらの戦型を比較的早い段階で崩して力戦に持って行くことも考えられる。
前説が長くなった。
静香が7六歩で始めると櫛木さんがノータイムで8四歩を指した。つまり戦型を先手である静香が決めることができる。今日は角換わりの日だ。
元々海老沢先生から鋭王のタイトルを奪取するために研究していた手だけれど出し惜しみはしない方が良い。そもそも鋭王戦第三局は静香は後手。静香は序盤が終わりに近づいたところで定跡から外れた。
これは先日学生との対局の中でヒントを得たものだ。そのままではプロの対局にとても使えるものではなかったので、出来上がった戦術は得たヒントからはかなり違うものになったけれど、静香が検討を重ねたのでより洗練されたものになった。
最善手だけを指し続ければ勝てるのではないか?
確かにそういう考え方もある。だが定跡を辿った場合、プロであれば当然対局者も当然その定跡を知っている。そして定跡から外れる「権利」を相手に渡すことになる。
そしてもう一つ気にしておかなければならないのは時間だ。1分将棋になればプロだって見落としがある。予想外の手からいきなり現れた19手詰めを1分間で見つけられるかというと、早差しが自慢の静香でも自信がない。
櫛木竜帝は長い持ち時間を有効に使える天才。だから相手の持ち時間を中盤の入口から、少しでも削ることが静香が勝つために必要なことだと思う。
考え方にもよるが、序盤では多少定跡から外れても挽回が無理とは言えない。自分がその手順を深く研究していれば、相手にとって未知の展開に持ち込むことができる。
初手8六歩、あるいは1八飛や9八香のようなぶっ飛んだ手を指さなければ挽回できないとは言えない。いやまだ研究されていないだけで、将来初手8六歩が定跡になる時代が絶対に来ないとは言えないけれど。