244.鬼神(6)
不幸なことに静香が指している間に、ギャラリーがどんどん増えた。幸いなことに静香が指している間に、多面指しに参戦する人が増えた。大学の代表に選ばれるような人たちが。この人たちを相手に駒を落とすと静香も少し苦しい。
さらに喜ばしいことに平手で指してくれる人たちもいる。棋力の差を理解しながらも、敢えてとっておきの研究手を静香相手に試そうとしているのだろう。これこそまさに静香が求めていたもの。
将棋の戦術はプロだけが開拓するものではない。静香が対局で使ったことがある「こなたシステム」や「かなけんシステム」もそうだし、有名どころでは「メリケン向かい飛車」もそう。
「立石流四間飛車」や「嬉野流」に到っては升田幸三賞を受賞している。
最初に挙げた「こなたシステム」や「白色レグホーンスペシャル」通称「レグスぺ」は 大学将棋が発祥だ。つまりアマチュアによって研ぎ澄まされた戦法は、プロにとっても脅威と成り得る。
これはいわば当たり前のこと。将棋に限らないけれど、プロはアマチュアがいなければ存在することができない。誰も興味を持たないゲームやスポーツではプロは存在できない。多くのアマチュアがいるから少数のプロの存在が許される。静香が常に心に刻んでいるように、普及活動はとても大事。ものすごく大切なこと。
そしてひとりあたりの研究にかける時間は専業のプロの方が当然長いしレベルも高い。でも数は圧倒的にアマチュアの方が多い。そして現代では誰でも容易にソフトを用いて盤面を検証し答え合わせをすることができる。
ソフトが普及する前、その一手が正解なのかどうかは人間が判断する必要があった。可能であれば上級者が研究会などで数人集まって検討することが望ましい。でも今は盤面でどちらが有利なのか、どの手が有効なのかをAIが教えてくれる。極論を言えば、どんな素人だってソフトと時間を使えば研究することができる。
ではその研究が有効かというと、それはまた違ってくる。
そもそも将棋における研究とはなにか? 現状、序盤の研究はコンピュータの高速化によって進みある程度定跡が整備されつつある。それら先人が開拓した道を辿るにしても、どこかで外れる必要がある。敢えてベストな手から離れて、相手が知らない道に誘うのが研究だと静香は捉えている。
ベストではないけれど盤面が悪くならない手。かつそこに足を踏み入れたことのない相手には指しづらい手。できれば見落としがちな罠があればよい。だって人間はソフトではないからだ。
でも対局相手の指し手を読むのは難しい。うまく罠を踏んでくれればよいが、相手もまた不利にならないようにこちらの研究範囲内を出ようとする。AIが計算するベストな手は少ししかないかもしれないが、人間が選択する可能性のある手はものすごく多い。それらをすべて読み切るのは不可能だ。
例えば整備された定跡から自分の研究手に誘い込んだとする。この時点で評価値は通常落ちる。その落差をできるだけ小さくすること。相手の選択肢をできるだけ奪い、できるだけ研究する範囲内を狭めること。相手が研究の範囲外に出た時、あるいは自分の研究範囲が尽きた時に、最初に落とした評価値を少なくとも挽回し、可能であればよい評価と持ち時間で有利に立つこと。
それが研究だというのが静香の理解だ。
まとめるとAIは将棋の研究に極めて有効。でも対局者がどう指すかは人間の、できれば上級者の感覚が必要。そして研究から外れた後にどう指すかも棋力が必要ということになる。
学生たち……静香も学生だけど……が研究した手を、静香が検証するのはお互いにとって良いことだと静香は考えているし、対局者の学生たちも考えているはずだ。そうでなければ平手で勝負する意味がない。
だから静香は多くの対局者をバッサリ斬る一方で、ユニークな指し手に対してはなるべく素直な手で応じた。その研究がどこまで進んでいるのかを探るためだ。
だがそれでも早々に研究から外れたことがわかってしまう場合もある。研究の範囲内だけれどもむしろ静香の方が有利な展開で進む場合もある。そしてリードを保たれたまま中盤に入った対局もあった。
もちろん棋力に差があるので中盤、終盤でひっくり返したけれど。
うん。今日はここにきて良かった。静香はそう思った。将棋部の後、「千夜研」にも参加し、後輩たちに愛想を振りまいてから静香は家に帰った。