243.鬼神(5)
海老沢先生に勝った次の週の火曜、ふと思いいたって下北沢で電車を降りた。今日はこのまま家に帰って、この前リリースしたアルバムに入らなかった曲の断片を見直すつもりだったけれど予定を変更。一旦家に遅くなるとメッセージを送ってから、電車を乗り換えた。
久しぶりに乗る電車は、2か月ほど乗らなかっただけなのに懐かしく感じるのが不思議だ。3年になってまだ1か月と少しだというのに、2年生まで通っていたキャンパスには少し違和感を感じる。
学生会館に向かう途中で静香はその違和感に気が付いた。この時期、大学には1年生が多い。1年生にとって静香はとても珍しいのだろう。実際3年生になってからここに来るのは初めてだ。静香は少し歩調を早めて目的地に着くと、そのままロビーの将棋部の活動スペースに向かった。
静香が近づいて来たことに気が付いた部員が声をあげる。
「みなさん、ご無沙汰してます。というかほとんどの方が初めましてですね」
静香自身は今も将棋部員のつもりだけど、実際に将棋部で活動したことがほとんどないのも事実。学園祭にも参加していない。2年生の時は極めて稀に講義の隙間時間に部室に来る程度で、年間でも片手で数えられる回数しか着ていない。こうして講義後の活動に参加したのは多分1年の秋が最後。
だから今の2年生も静香と直接会話した部員はそう多くない。ましてや1年生は全員が初対面だ。
「天道先輩、お忙しいのに来ていただいたんですね」
顔見知りの2年生が声をかけてきた。将棋部はもちろん、ロビー全体がざわついている。
「そう。ちょっと気分転換をしたくてお邪魔したのよ。今、手が空いてる人と対局したいの。対局中の人はダメよ」
静香の目の前で対局中のふたりが手を挙げそうになったので、事前にそれを制した。人の対局を見たり、スマホをしていた後輩たちが何人も手を上げた。ざわめきが大きくなる。
「じゃあ今手を上げた人は、将棋盤を持ってあちらに来てもらっていいかしら? 多面指しをするわ」
静香がそういうとそのうちのひとりが叫んだ。
「おおっ、舞鶴千夜と指せるなんて一生の自慢になるんちゃうか」
「先輩だぞ。しかもプロの先生を呼び捨てにするな」
芸名で呼ばれるのは仕方がないし、舞鶴先輩と呼ばれるのもなにか違う気がする。舞鶴七段とか聞いたら笑ってしまいそう。でも舞鶴千夜の名前で公式戦に出たこともあるのであまり強く言えない。
ぞろぞろと空いたスペースに移動しながら、これで本当に将棋盤だけ持ってきて、駒を持ってなかったら怖いと思ったのだけど、どちらも持ってきていない人間の方が多い。それらはたぶん野次馬だろう。
「じゃあ私の周りに集まって。対局しましょう。好きなだけ私の駒を落として良いわよ? 平手の人は私が後手で指すか戦型を指定してもらってもいいわ」
静香がそう言うと、また大きな声が起きた。相手は7人。思ったより少ないけれど邪魔をしているのは静香。みんなには自分の対局を優先して欲しい。
先ほど見まわした時には同級生や先輩たちも若干いたけれど、みな対局中だったようだ。7人の対局者には多分後輩しかいない。多分というのは静香が知らない同級生や先輩も混じっている可能性があるから。そう思っているとちょうど対局が終わったのか、急いでこちらにくるふたりがいる。
本当に終局したのかな?
少しだけ疑問に思ったけれど、静香は気にしないことにした。これで対局者は9人になった。遅れて来たふたりも周りから状況を聞いたのか急いで駒を並べている。
当然ながら静香には、アマチュアとの多面指しの経験がある。でもこの時点で静香の興味をひく盤面がある。
ある後輩は静香の側には王将が1枚だけ置かれている。この後輩の棋力はどんなものだろう? 本当の初心者なのか、それとも何が何でも勝ちたいのか。また別の後輩は静香の駒ではなく自分の駒を落としている。落とされた駒は2七の歩。
駒落ちの将棋は駒を落とした方が先手になる。2七の歩を落とした先手は、初手で2三飛成を指せる。
「太閤将棋ね。見たの初めてだけど、良いわよそれで」
平手は1人だけ。2枚落ちが3人。あとはもっと駒を落としている。流石に王将1枚は1人だけど、10枚落ちが1人いる。みんないつも真剣に将棋を指しているのかな? 静香は少し将棋部の未来が心配になった。
「持ち時間は決めないけど、遅くなったら私が投了するからね。じゃあ始めましょうか」
そして静香が密かに目論んでいたような、今の大学将棋の最前線を知ることはできない。そのことだけはもうわかった。
しばらく隔週連載が目標です。