242.鬼神(4)
鋭王戦第二局は、終始静香のペースで終わった。海老沢先生にしてはあまりにもあっけなさすぎる。第一局の接戦は何だったのかと拍子抜けするほどの勝ち方だった。いや海老沢先生に悪手は無かったと思う。でも唸らせるような手は無かったし、罠に嵌めるような手も無かった。粘る一手すらなかった。
序盤に先手の静香が研究していた局面が、そのまま中盤まで展開された。だから序盤から徐々に静香に有利になり、研究を外れた中盤ではもう覆すことのできない状況になっていた。まるでテレビ対局で見たような局面がゆっくり何時間にもわたって続いた。
「それでは連勝し、タイトルに王手をかけた天道七段にお話しをお伺いします。先月、女性として初めて棋戦のタイトル挑戦者になりました。このまま勝利を重ねれば、当然女性で初めてのタイトルホルダーとなりますが、まずは率直なご感想をお聞かせください」
女性棋士は未だ静香しかいない。だから何をやっても女性初の冠が着くのは当たり前。そこを強調されるのは静香の本意ではない。だがこれだけ業界にどっぷり浸かっている身だからこそ、マスコミがそれを求めているのも理解できる。
「そうですね。今回は上手く指し回しさせてもらったのかな、と思いました」
おそらく海老沢先生はこの対局を捨てたのだろう。何のために? それはもちろんタイトルを防衛するため、それしかありえない。つまり静香相手であれば第三局から3連勝できる、海老沢先生にはその算段があるのだろう。
「次の対局からが本番で、まだまだタイトルまでの道のりは遠いと思います。一局一局を丁寧に指し続けたいと思います」
だから静香もここで釘を刺しておく。海老沢先生がわざと手を抜いたことには当然気が付いていますよ、と。勝った直後のまさに今、互いに目の前にいる状態で、少しでも牽制しておかなければならない。
静香の後、海老沢先生もコメントしていたが、すべて無難なものであった。タイトルを獲るために残り三局全力を尽くすというものだった。その後の感想戦からも静香が特に得られたものはない。言うなればこちらの手札、この場合は研究手を費やしただけで、それを深めることもできなかった。
今日はこのままタクシーで家に帰った。流石に千夜の仕事もない。静香は後部座席でこれからの事を考えていた。海老沢先生が第二局を捨てたのは、その方がタイトルを防衛できると思ったからだろう。
実際、静香が二勝したことで、マスコミや将棋系のネットも沸き返っていた。たしかにこれは嫌な雰囲気だと思う。後は日程の問題がある。ここしばらく静香は好調の波が続いていた。
鋭王戦で連勝スタートした他、棋神戦もタイトル挑戦を決めた。王偉戦は挑戦者決定戦に進むことができた。そうすると当然その続きがある。棋神戦は御厨先生への挑戦が来月から始まる。王偉戦も挑戦者決定戦がある。この相手も御厨先生。櫛木さんと並んで三冠を持つ現在の最強棋士だ。手ぶらで勝てる相手ではないので対策をしておかないと無様な姿を見せてしまうだろう。
竜帝戦も4組の決勝進出が決まっている。本戦に出れるのは4組からは優勝者だけなので、これも勝たないといけない。こちらの相手は櫛木さんの兄弟子の野々原さん。この人にも静香はこれまでに何度も負けている。それに加えて静香は女流のタイトル戦もある。
あと大学は3年から専門課程に入りキャンパスも替わった。静香が主演を務める映画の撮影がアメリカでひそかに始まっているが、静香が出るシーンは遅らせてもらっている。本格的な撮影は夏休みだけど、ゴールデンウィークにも撮れるところは撮るので渡米する必要がある。
春にリリースされたアルバムがこれまで以上に売れているのは喜ばしい限りだし、いろんなフェスからお声がかかるのも嬉しい話だけど、とにかく時間が足りない。
流石の海老沢先生も舞鶴千夜の予定までは把握していないだろうけれど、将棋界のことは静香以上に詳しいはず。マスコミや世間が初の女性タイトルホルダー誕生だと騒いでいることも、これから静香が大切な対局がいくつも続くこともご存じだろう。静香がとっておきの研究手を第二局につぎ込んだこともわかっただろう。
海老沢先生は第三局を研究で押し切って、そのまま3連勝するつもりだ。静香相手にならそれが可能だと思われている。静香はそれがものすごく悔しい。そしてそれが実現する可能性もそれなりにある。
駄目だ。このままでは海老沢先生の手のひらの上だ。なにか思い切ったことをしなければならない。
ここまで考えたところで静香は自宅の前で運転手に起こされた。いつの間にか眠りに落ちていた。
今週は曜日を間違えました。すいません。
ただいろいろとごたついているので来週は休載し、次回は7月30日を予定しています。しばらく隔週連載になるかと思います。