240.鬼神(2)
『舞鶴さんありがとうございました』
「さすが世界の音楽賞を総なめにした、繊細かつパワフルな独唱でした」
「素晴らしいですね」
「そしてホームチームのギガンテスの選手たちが自分のポジションにつきます。始球式はもちろん、先ほど見事な独唱を聞かせてくれた舞鶴千夜さんです」
セレモニーに使われていたマイクなどが撤去される。始球式もセレモニーだけど、選手たちが試合と同じポジションについている。唯一違うのが18番の背番号を付けている先発ピッチャーの山崎。昨シーズンの最多勝投手だ。山崎はマウンドの脇にいて、彼から舞鶴千夜にボールが手渡しされる。
「山崎さん、ありがとうございます。今年も最多勝狙ってください」
「あっ、はい」
もちろん両者の声をマイクが拾うことはない。千夜はマウンドから丁寧にお辞儀をすると、ピッチャープレートを踏んでセットポジションから綺麗なオーバースローでミットめがけて投げ込んだ。ボールはもちろん山なりの軌道を描くが、それでもキャッチャーの構えたミットに収まった。ストライクゾーンを通ったかは正直心もとない。
だが大きなどよめきとそれに負けない拍手がスタンドから押し寄せて来た。千夜は四方に向かってお辞儀を繰り返す。
よし、野球選手としてはともかく、エンターテナーとしてはまあ合格点ではないだろうか。これで前座はお終い。さっさと退散して真打に任せよう。
「千夜ちゃーん」
複数の若い女性が、せーのっ、で合わせたであろう声がスタンドからひと際大きく聴こえたので、千夜は小走りでバックネット側にある出口に向かいながら、声が聞こえた方に大きく手を振った。
野球の応援に来るお姉さまたちはやはり声も大きいのだろうか? それにしても千夜「ちゃん」は少し新鮮。
出口付近にいる関係者の何人かと握手をしてから千夜はグランドを去った。そういえば……久しぶりに頭から将棋盤が消えていたことに静香は気が付いた。それに気が付いてしまうと、静香の頭の中でここのところ研究している局面から駒が動き始めた。
舞鶴千夜のニューアルバムは今日発売された。だからやることは今日のような販促に繋がるような露出が求められる。明日は、現在では珍しくなった生放送の歌番組に出演する。千夜は海外での売り上げの方が多いけれど、CDの売上で言うと日本国内は決して無視できないマーケットだ。
だから暇ではないけれど、やっぱり一番大変だった制作の時期は終わったので、今は既にエクストラステージ。いわば大きな仕事を終えた後の後片付け状態。実際生放送に出るのは明日だけで他は全部録画。プラスドムーブに少しづつ公開される動画も録画。
舞鶴千夜が一仕事終えた後、張りつめていた神経を弛緩させる時期に入るのとほぼ同じタイミングで天道静香の前にはこれから血を血で洗う修羅道が敷かれている。
まず年度が替わるとすぐに女子オープンの女王戦と女流王偉戦が重なってある。挑戦者はどちらも今泉女流五段。彼女は今絶好調なので決して甘く見て良い相手ではない。
だが問題はそちらではなくて男子のタイトル戦の方。もう既にすべての対局が終わった今期、早指しは静香の独壇場となりつつあるがタイトル戦は大荒れだった。そこに静香はこれから足を踏み入れるのだから。
まず今期棋戦のタイトルホルダーがどう変わったか。
名人:御厨永世名人が連覇中
鋭王:海老沢鋭王が3連覇
棋神:御厨永世棋神が連覇中
名人は今年度B級2組を卒業した静香にはまだ関係ない。だが逆に鋭王戦にはついに挑戦者になった。当然ながら女性が「男性棋戦」のタイトル戦に出るのは初めてとなる。当然この「男性棋戦」という呼び方は静香の好みではない。でも「一般棋戦」という言葉は公共放送杯など、タイトル戦でない棋戦の総称として使われているのでわかりやすい言葉がない。タイトル戦だと女流もある。
そして棋神戦にも静香は決勝トーナメントのファイナリストまで来ている。決勝も一発勝負なので、あと一回勝てばタイトル戦に出ることができる。当然ながら決勝の相手はメチャメチャ強い。相手は今最も勢いがあって、最強議論を再燃させている櫛木竜帝(三冠)だ。
王偉:月影→櫛木
昨季御厨先生からタイトルを奪った月影先生が、一度も防衛できないまま櫛木さんがもぎ取った。王偉戦も現在2リーグある片方でトップなのでチャンスはある。これ以降のタイトルはまだ静香がどこまで行けるかわからない。
王者:御厨王者が連覇
王者も王偉と同様ここ数年タイトルホルダーが、国分→小田桐→御厨と落ち着かない状態だったが、御厨先生が防衛した。
竜帝:櫛木さんが連覇
玉将:御厨→小田桐
長らく御厨先生のためにあったタイトルだが、小田桐先生が獲った。
棋奥:御厨→櫛木
これも御厨→月影→御厨→櫛木と落ち着かない。勝利の女神様は移り気だ。
8大タイトルのうち半分が変わったというとそんなものかなと思うのだけど、少し前に御厨先生一強だった時代からすると、櫛木さんが台頭してきて、一方海老沢先生や小田桐先生といったベテランも健在といったところで混沌として来ている。
この中で自分がどれだけやれるのか、勝ち目は薄いけど恥ずかしい将棋は指したくないと思う。