233.プラスドムーブ(6)
今日はスポンサーのお仕事。いつもお世話になっている滝山呉服店の本店に静香は来ている。
「先手 2三竜」
この113手目で詰んでいるけれど、対局者の女の子は数秒考えてから「負けました」と言った。おそらく心の整理が必要だったのだろう。60手ぐらいまでは圧倒的に不利な状況だったのでいつこちらの守りが決壊してもおかしくなかった。だって6枚落ちだから……
コマ落ち将棋のうち、上手が飛車角桂香の6枚を落とすのが6枚落ち。今日静香は滝山呉服店で行われた記念対局に出場していた。相手は女子小学生大会の優勝者なので、流石に6枚落ちだと勝てるわけないよねと思ったのだけど、女流のタイトルホルダーとしての面子を守れて良かった。
多分街の道場でギャラリーもいない状況で対局していたら静香が負けていたのではないだろうか? 和服を着て、店内だから限りがあるとはいえ多くの人に見守られ、しかも一手30秒以内で指し手を読み上げられる。
そして静香は一切容赦しなかった。自分がそれなりに有利な状況になってもなおノータイムで思いつく最善手を指して詰ませにいったのは、やはり大人げなかったかもしれない。
勝ち目が見えた時点で白銀戦のリーグ戦でやっていたような接待プレイをすれば良かったのかもしれないが、6枚落ちではそれは難しい。駒組の問題もあるが、相手に隙を与えれば入玉を阻むための駒が無かったからだ。
「序盤はとにかく苦しくて、足掻きに足掻き続けました。60、いや70手ぐらいからなんとか勝負に持ち込めたと思うのですが、そこからも全力をだして40手以上かかりました。今11歳ですよね。とても強かったと思うので、これからも頑張ってください」
とても「上から目線」の発言のような気もするが許して欲しい。
「天道七段の全力を耐え続けたわけですから、これはすごいことですね。今の七段の話を聞いてどう思いましたか?」
司会者の蒔苗ひかり女流二段が静香に負けた女の子に話しかける。こういうところでも迷惑をかけて申し訳ない。
「6枚落としてもらっても勝てる気がしませんでした。もっと頑張らないといけないと思いました」
思ったよりもしっかりした子どものようだ。ここにいるということは奨励会や研修会には入っていないはずだけど、まだ幼いのに大人見たいな話し方をする。奨励会はともかく研修会には入れそうな棋力はあると思う。
静香がこの年齢の頃は奨励会3級あたりか。まだ落ちぶれる前で周囲の期待を集めていた頃、思えば最初のピークだった頃だ。2回目は高校に入ってからずっと続いている。この好調さもいずれは失われるのだろう。その後3回目を持ってこれるかが静香の課題と言ってよい。
「それでは本日の記念対局を終わります。対局者のおふたりはもちろん、ご観覧のみなさまもありがとうございました」
そういって蒔苗女流二段は記念対局を締めくくった。狭い会場とは言え、大きな拍手に包まれて、静香も客席に深々と頭を下げた。
なお、もう一つ蒔苗女流二段に迷惑をかけているのは段位のことだ。現在の若手女流棋士は二段で打ち止めになってしまう。若手女流棋士が三段になるにはタイトルを獲る必要があるからだ。
静香は女流棋戦においてこれまで白銀を除く6つのタイトルに合わせて13回出場し13回タイトルを得ている。それどころかただの一局も負けていない。もし三段リーグを勝ち抜いてなかったら今頃は女流五段になっているだろうか? もしかしたら六段かもしれない。
そんな静香の存在を前提に考えると、女流二段から三段昇段するには白銀戦でAリーグまで昇格して白銀のタイトルを獲るか、二段になってから100勝する必要があり、どちらも時間を要する。
秋から始まる白銀戦のリーグ戦で静香はB級に昇級する。このペースで行けば1年後にはA級に昇格することができるだろう。だから今回のA級リーグはタイトルを獲るラストチャンスとも呼ばれているが、A級には今泉先生や大沼先生の他、岩城先生や岸先生がいるわけで、彼女たちに勝たなければならない。勝ち上がった後に向田白銀に番勝負で勝ってやっとタイトルホルダーになれる。
だから静香が女流棋戦から引退するのを待ち望んでいる人たちがいるのも確かだ。すべてのタイトルを獲れば引退する。確かに以前静香はそう言ったけれど……すべてのタイトルを獲るのにあと何年かかるのか?
静香自身は一生無理だと思っている。