230.プラスドムーブ(3)
静香の頭の中の将棋盤で中で後手の有効な手を探すが突破口は見つからない。蒔苗妹も同じ判断に到ったのだろう。後手は10分かけて銀を上げて来た。
堅実な判断だ。でもこのままだと静香の優位は揺るがない。ずるずると勝てるとは思わないので、どこかで踏み込んでくるはずだ。静香はそれまでに自分の優位を確立するべく考える。今日は第一感の検証でも構わない、考え続けることが今日のテーマだ。
静香は先ほどと同じように2分かけて考え、結局第一感の通りに桂馬をさらに跳ねた。桂馬を5段目まで上げて相手の反応を待つ。後手はここで5分程使って、こちらの桂馬のケアをした。えっ、そっち?
静香の予想と違う所に後手が指した。その受けだとこちらは桂馬と歩を犠牲にすれば馬を作れる。一時的に桂馬を駒損するけど、その後は相手の出方によって相手玉を脅かすか、あるいは相手陣を荒らして浮いた駒を漁ることもできる。どちらに転んでも収支はプラスになるはず……だけど静香は考える、その手に粗はないか? 桂馬を取られることのリスクはそれなりに高い。相手に打ち込まれる隙が自陣にないか?
検証の結果、やはり静香は第一感に従って、踏み込むことにした。そこからは一方的な展開になってしまった。先手陣は堅く、後手陣は焼け野原。駒台には相手を蹂躙するのに十分な戦力が整っている。一方後手の駒台は寂しい。
だけど静香は考える。相手がこちらに攻めてきた場合に耐えられるかどうかを念を入れて検証する。問題ないことを確認し、さらにもし静香が今後手ならばどうするかを考える。もし相手が御厨先生や櫛木さんだとすると、ここから逆転するのは相当困難だ。
どんな競技でもそうだけど試合中には有利・不利というのがある。サッカーのように得点差という明確な数字にはでないけれど将棋もそうだ。不利な時の基本方針はいくつかある。ひたすら受けて相手の攻めが切れるのを待つ。一手差の状況を作ってプレッシャーをかける。相手の時間を削るいわゆる時間攻め。
でもこの状況を後手からひっくり返すのは相当難しいと思う。静香は終盤に入った局面を進める。
静香は感想戦や勝利インタビューを普段よりも丁寧にして対局室を後にした。この映像に静香が自戦解説をできるだけ丁寧に入れる。自分の手だけでなく、対局相手の蒔苗あかり女流二段の手についても、推測だという前提を入れて解説する。これであと編集の手が入ったものをプラスドムーブに上げられることになる。
編集はショート版とフル版の2種類が作られる。だいたい動画サイトで見てもらえるのは5分程度までのコンテンツだからしかたがないね……その時間でどうやって将棋の魅力を伝えるのかは編集さんの腕にかかっている。
10月は女流の防衛戦が多いので二桁の対局数がある。それらの対局の中から他2戦が動画対象に選ばれた。最初の対局は特別対局室でお互いに晴れやかな和装をキッチリ決めた見た目の華々しさが重視されたが、次の対局は一転して早差しの星雲戦の決勝が選ばれた。この大会は囲碁将棋専門チャンネルが主催しているのだけど、そのあたりの権利の調整は静香の知る所ではない。鎌プロでは魚住さんがいろいろ調整してくれていると聞く。
あちらが女性同士の和服だったのに対し、こちらは男性とスーツ姿で対局する。この決勝の相手は御厨先生。名人以外に棋神と、王者、玉将、棋奥のタイトルを持っている。王者は番勝負中だけどね。最近より若い棋士、具体的には櫛木さんの台頭があるとは言え、未だこの世界の第一人者であることには誰も疑わないだろう。
そんな格上相手とは言え、下馬評では静香の方が有利とみられている。静香はこれまで短期戦で一度も敗れたことがないからだ。
いやいやいや。御厨先生の方が棋力が上ですよ。相手はボスキャラなのに、それに勝てると思われているのは正直辛い。だが名誉なことではある。お互いに準決勝に駒を進めているので、来月のチャンピオンシップ決勝でも当たる可能性がある。
振駒の結果は静香が先手。ここのところ、静香の振駒ガチャはかなり調子が良い。幸先よしなので是非優勝したいところ。負けた対局を丁寧に自戦解説するのは罰ゲーム以外の何物でもないし、しかもそれが世界中に見られる可能性がある。
ここで静香はプロになってから初めての初手を指した。初手7八金。この手は後手が飛車を振った場合、先手は船囲いにできないので不利になる。つまり居飛車党の御厨先生に、振り飛車を指しませんか、というメッセージだ。
でも御厨先生は挑発に乗らず8四歩と飛車先を突く。仕方がないの7六歩と普通に相居飛車。静香の気合は空回りでごく普通の序盤になってしまった。
8五歩、7七角、3四歩、6八銀
互いに角道を開けて角替わりの様相を見せたが、6二銀で戦型を保留されたので、2六歩と突くと10手めで4四歩。角換わりも無しか。このまま持久戦で進みそうな気がする。まだ互角だけど心情的に良くない流れだ。
何度もすいませんが、いろいろと仕事や私事があり、次回は4月になるかと思います。申し訳ないです。