226.将棋チャンピオンシップ(9)
40手目に△5五歩と突く、そこから同角、同角、同銀、となり6五の桂馬を静香の桂馬で取る。今の攻防は良かったと思うけどまだ先手持ちではないだろうか。しかも下がると思った先手の銀が更に上がってきたので、取ったばかりの桂馬を5三において紐をつける。銀桂交換ならよし。局面も少し不利ぐらいまで戻ったというが静香の形勢判断だ。
将棋は基本的に有利な方がそのまま相手を押し切るのが王道の勝ち方だ。持ち時間の短い棋戦なら間違いも多いけれど、竜帝戦の本戦トーナメントは持ち時間が5時間あるし、それもストップウォッチ方式なので1分以下は切り捨てられる。それでも通常の対局ならば40手を超えたなら、互いに残り時間を意識し始める時間帯だ。だがこの1回戦はこれまでの竜帝戦とは様相が異なる。ここまでふたり合わせて30分も時間を使っていない。そのうち静香は2分だけ。静香が思ったとおりの展開だ。
武田四段は竜帝戦本戦トーナメントのルール、その持ち時間の長さを活かしきれていない。同じ欠点は静香自身にも言える。だが自分のルールを相手に押し付けることをこれまで実戦で鍛えて来た静香と、まだ自分の戦い方を模索する段階にある武田四段との差が出て来た。戦い方の中には当然時間の使いも含まれる、せっかくの持ち時間を使ってもっと深くまで読まなければリードを保てない。だが自分が指すリズムも変えたくはない。
先手が自陣の整備を優先したので、静香は48手目に4四に角を打つ。盤面の中央やや静香寄りがごちゃごちゃしてきたので、ここをうまくほぐす必要はあるけれど、勝負の天秤は手が進むごとに少しずつ少しずつ静香に傾いてきている。それを武田四段も感じ取ったのだろう。ここで初めての長考に入った。静香は一度席を立ち、会場の許される範囲の中を少し歩いてみることにした。だが静香が戻ってからも手はまったく進んでいない。
結局ここで1時間近く時間を使った先手が、53手目に6三に角を打った。先手からこの駒の塊りをほぐしにきたのだけれど、長考した割には素直な手だ。この手を指すかさんざん悩んだ末に、やはりこれしかないと思ったのかもしれない。いずれにせよ静香のペースと考えてよい。
一本道に△同銀、▲同歩成、△同金、▲同銀成とどちらもあまり損得なしに解消されていく。これを好機とみた静香は、解消と同時に58手目に7七桂成と敵陣に成り込んだ。相手の金を相手玉の近くに追いながらできたスペースを自分のものにするのが狙いだ。さらに62手目に6五に駒台から桂馬を置いた。これでも盤面はまだ互角。天秤はまだ水平あたりを揺蕩っている。
だが勢いが違う。野球で例えれば負けていたチームが同点に追いついたところ。静香は手ごたえを感じ始めた。
60手を超えてまだ3時間以上時間を残しているのだから、武田四段はもっと余裕をもって対処すればいいはず。だが考えるべきところではなくて、そうでないところで時間を費やしており、その事実を自覚することで彼自身が自分の将棋を見失う。
だが静香としてもまだ楽観はできない。序盤の不利を覆したとは言え、なかなか有利にはなれない。弱点も多いけど、やはり武田四段は強い人だと静香は思った。その途端に6五に金を打ちこまれた。こちらが打った桂馬を取る。逃げても歩と金で成桂をふたつ消せればそう悪くないという判断なのだろう。だが甘いと思う。ここはもっと時間を使った方が良かったのではないだろうか?
静香は桂馬を見捨てて、7七角成と馬を作る。これでまた少し静香に有利になった。だが先手は飛車を捨てて、静香の守りを潰すための駒を足していく。静香も守りを捨てて相手の陣を荒らす。先に王手をしたのは先手、75手目4二銀成。だがこれは同銀で取ればその後は続かない。
将棋で終盤は何が大事かというとまずは詰む詰まないの判断。そして速度計算だ。プロ同士の対局では大差で終盤に入ることはまずない。だから後何手あれば詰将棋の状況に持って行くことができるか。それが将棋でいう速度計算。一手でも短ければそのまま攻め込んでよい。長ければそれを短くする工夫をしなければならない。
だがその後も互いに攻め合いを続ける。つまり互いに速度で負けていないと思っている。静香か、武田四段か、どちらかが何等かの見落としをしている可能性がある。
静香の2二玉を守るのは3三桂の一枚。だが8二と最初からまったく働いていない飛車も守りに使えるはず。当初の予定では相振り飛車にする予定だったのになんという体たらく。王将が最初から動かないことを居玉というが、居飛車はこういう意味じゃない。
そして同じように仕事をしていない1一香も多少は役に立つかもしれない。四段目に並ぶ3枚の歩は壁になっているからむしろ邪魔かも。そして攻めて来るのは4二成銀と4三成桂、そして駒台にある金、銀、桂だ。
先手玉は2八にいるが、九段目に香、桂、銀が並んでいる。攻めているのはと金一枚だけどそれには6六の角が利いているし、7九には竜がいる。こちらの駒台には金2枚、銀1枚と飛車がいる。つまり先手の攻めを受け止めたらこちらの勝ちだ。そして静香の頭の中の将棋盤では受け止めることができている。
よし。このまま行けば勝てる。静香は次の手を指す準備をした。