217.モデルチェンジ(3)
その後は互いに一択盤面が進む。静香はノータイムで、海老沢先生は少しずつ時間を使いながら局面が進む。57手目、海老沢先生が7六金と金を攻防に効かせるように上げて来たところ。ここで静香に初めて手が渡された。普通に指すといくつかある守備の手からどれを選ぶかだろう。だって静香は居玉のままだが、その周囲に守りの駒は1枚も無い。でもどちらかの銀を下ろすのは勿体ないから玉を上げるか、金を寄せるか。ここで5四銀と上がる手も成立するんじゃないかな?
静香はここで時間を使った。なぜなら5四銀の後はかなり複雑だ。59手目の選択肢はいっぱいありすぎる。
8五歩だと以下は4二玉、9六歩、6四飛、5五銀、同銀、同角、5四飛、七3角成、同金、6五金、6四金、5四金、同金、7ニ飛、5二銀、6一銀、4一金、5二銀成、同銀、6三銀、4三銀、5二銀成。
思いっきり攻められてるがそれでも守りは十分で形勢互角。9六歩でも4二玉は一緒だけどその後は、8五歩、6四飛で以下は8五歩と同じ手順になる。
7八玉の場合は4二玉、9六歩、とってその後は3二金、8五歩、6四飛、5五銀、同銀、同角、5四飛とここまでは同じ手順になるが、そこからは5六歩、6六歩、同角、6五歩、5五角、6六銀、6八歩、3九角、3八飛、6七銀、同歩。これも形勢互角で悪くない。
後は5五銀だと同銀、同角、7ニ歩、9六歩、4二玉、7八玉、5四飛、7七角、8五銀、8七銀、3九角、3八飛、7六銀、同銀、5七角成、5五銀、7九金、8八玉、8四飛、8六歩、8九金、同玉、5六馬、2八飛。
あるいは
これも形勢互角。
他には8四歩、8七銀、6八金、4五歩などの手が59手目の選択肢としてあり得る。いずれの手も途中の分岐も考えながら、考えに穴が無いことを確認したので静香もそれなりに時間を使った。時計をちらりと見たところでは20分ぐらい考えた? それから5四銀と攻めの手を指した。
海老沢先生にとっても意外な手だったのかもしれない。海老沢先生が考え始めたので、静香は一度席を外して頭を空っぽにすることにした。顔を洗いながら自分を確認する。大丈夫、まだ疲れはない。この方法で最後まで自分が持つか。そして逆にリズムを崩したことにならないか。不安は多いが、同時に自分の新たな可能性も感じる。
席に戻っても海老沢先生は次の手を指していなかった。静香はなるべく頭を空っぽにしようとしたが今度は上手くいかなかった。新しいメロディが天啓のように静香の脳裏に浮かび上がってきたからだ。えっ、えっ? これさらにこんな風に展開すればいいんじゃないの? さらにこうすれば。いや対局中は頭使ったらダメなのに。頭は空っぽにしなければダメなのに次々にその続きの旋律が舞い降りる。覚えていられると思うけど、できればどこかに書き留めておきたい。
海老沢先生は30分近く時間を使って、5五銀だったので静香は頭から旋律を追い出してノータイムで同銀。今度は海老沢先生も30秒ぐらい考えて同角。予想通りなのでノータイムで7ニ歩。ここでまた海老沢鋭王が時間を使う。静香は再び音に浸る。
10分ぐらいたって海老沢先生が指したのは7四歩。静香の考えていた手順から外れた。まっそれが当たり前だよね。ここは払う一手だが飛車と金のどちらで払うかだけど、ここは考えなくても大丈夫。ノータイムで同飛とする。
その後も所々考えるべき箇所だと思ったところで考えた。考え抜いたところで、結局一緒だと思うところもあれば、考え抜いた結果、第一感とは異なるところを指したりした。そして海老沢先生が考えている間、メロディとしばらく格闘していたが、やがてそれも止まった。ひとつの曲ができたからだ。
静香も今まで作曲したことはあるけれど、楽器に触れずに作曲した経験はない。これはとりあえず第1稿が完成として頭の片隅に置いておく。こうやって頭のリソースは将棋か休息に専念させる。
盤面は徐々に静香有利に傾いていく。もちろん海老沢先生相手だから油断するなんてとんでもないことだから、しっかり守ってしっかり攻める。自分のペースを崩さずに、考えるべき局面を見定める。
そして90手目に7九馬で王手をかけた時点で自分の勝ちが近づいていることを感じた。あとは間違えないように指さないといけない。海老沢先生が仕掛ける罠をかいくぐりながら、99手目に1四桂と王手されたが、100手目で普通に同歩としたところで海老沢先生が投了した。
これでタイトル戦のベスト4に初進出。あと3回(準決勝、決勝、敗者復活戦勝ち上がり者との挑戦者決定戦)勝てば初めてタイトルに挑むことができる。
だが静香はその後、準決勝でも海老沢先生に勝ったのと同じスタイルで櫛木さんと対局して破れ、敗者復活戦でも小田桐先生に敗れ、タイトル挑戦には及ばなかった。
でも海老沢先生に4時間の棋戦で勝ってベスト4まで行ったことは静香にとって大きな自信になった。櫛木さんや小田桐先生に負けた時ですら手ごたえを感じた。
そして対局中に作曲した曲がヒットしたのはまた後の話。