214.スナップショット
グラスバレーフェスから帰ってから、千夜はこれまでよりも忙しい日々を過ごした。大海ドラマの撮影日。主役である千夜の撮影を前倒しした貯金が尽きかけているという。
メインキャストには日本でも指折りの俳優が揃っているので、撮り直しはどうしようもないハプニングが発生した時ぐらい。それすらもアドリブで乗り切ろうとする人がいると、千夜もそれに合わせなければならないので気が抜けない。
だがおかげ様で一度撮影が始まると、快調に進む。
「OK。じゃあ次は衣装とセットを変えて3時から再開します」
千夜は一旦汚れても良い服に着替える。化粧とか落としていないので、汚れるのが前提で来ている仕事着みたいなものだ。それでトイレから戻ると椅子に腰かけて教科書と友人にコピーさせてもらったノートを見比べる。
もう7月もそろそろ中旬。2年生夏学期の試験はすぐそこまで近づいている。短い時間をかき集めて試験対策をしなければならない。幸い静香の場合は1年生の時にTPLで多めの単位を取っていたおかげで、語学などの必修以外に必要な単位が他の同級生よりは少ない。
でも2年生の冬学期からは専門科目も始まるんだよね。
いやまずは目の前の科目から片付けよう。静香から話しかけるなオーラが出ていたのだろう、ADさんがおずおずと話しかけて来た。
「舞鶴さん、そろそろご用意をお願いしてよろしいですか?」
時計を見ると撮影再開まで残り15分程しかない。
「あっすいません。大急ぎで準備しないといけないですよね」
おかげで一教科を一通りは終わらすことができたが、このままでは皆を待たせてしまう。千夜は手伝ってもらいながら急いで衣装を着替える。着替えた後はヘアードレッサーとメイキャッパーに身を委ねる。
その間静香は別のことを考えていた。初手から
▲7六歩
△3四歩
▲2六歩
△3二金
▲2五歩
△8四歩
▲7八金
△8五歩
いわゆる6手目△8四歩型一手損角換わりの出だしだが、8手目に横歩取りを選択したような形だ。あまり見ない形ではあるが、この後を考えてみる。
▲5八玉
△8六歩
▲同 歩
△同 飛
▲2四歩
△同 歩
▲同 飛
△5二玉
▲3六歩
△7六飛
▲7七角
△7四飛
▲3八銀
△9四歩
22手目までは静香の頭の中は一瞬で進んだ。
これは先手も後手も静香がベストだと思う手を指している例えば上記の場合8手目の局面で静香が手番を渡されたら9手目は▲5八玉、そして同じようにその局面で手番を渡されたら△8六歩と指すということだ。
局面局面をスナップショットとして切り取って考える。どういう狙いがあって9手目を指したのかを忘れて、10手目を考える。そしてその意図を忘れて11手目を考える。その繰り返しだ。
だが、23手目で静香は一瞬躊躇した。
▲9六歩?
そうすると以下も一気に進む。
△2三歩
▲2五飛
△8四飛
▲8八銀
△9五歩
▲8五歩
△7四飛
▲7五歩
△7七角成
▲同 銀
△5四飛
▲9五歩
△3三桂
▲2七飛
△6四飛
▲7六角
△3五歩
▲同 歩
△7四歩
▲同 歩
△8八歩
▲同 銀
△7四飛
▲7七歩
△7三桂
▲2六飛
△7二銀
▲6八金
△8六歩
▲1六歩
△4二銀
▲6六歩
△4五角
▲5六歩
△5四角
▲同 角
△同 飛
▲3七桂
△2四歩
▲2三歩
△同 金
▲7八角
△2五桂
▲9四歩
△9五歩
▲同 香
△3七桂成
70手目の△3七桂は不成でも良い。でもこれ完全に後手有利になってるよね。念のため少し続けてみる。
▲同 銀
△2五歩
▲2八飛
△9四香
▲5五歩
△同 飛
▲5七歩
△2四金
▲9四香
△8五飛
▲8三歩
△8七歩成
▲同 銀
ダメ。念のため85手目まで考えたけど、先手が悪くなることはあっても良くはならない。どこか途中で良い手を見過ごした? 69手目、67手目、65手目、と一手ずつ戻るが特に悪手はない。つまり自分vs自分で、ほぼ互角で進んでいると考えていた静香の大局観が狂っていたということになる。
23手目に躊躇した▲9六歩がやはり悪手だったと静香の中では結論づけた。では23手目に▲3五歩ではどうだろう?
▲3五歩
△1四歩
▲9六歩
△7二銀
▲8二歩
△9三桂
▲8一歩成
△8八歩
▲7五歩
△5四飛
▲2二角成
△同 銀
▲8八銀
△8七歩
▲7七銀
△8五桂
▲6五角
△8四飛
▲3四飛
△同 飛
▲同 歩
△3七歩
▲同 銀
△2七角
▲5九金
△3八角成
48手目まで来たけど静香の形成判断ではほぼ互角か? だがここは少し迷う、▲8六銀か▲8二と の2択、シリアルでは面倒なのでパラレルで進行することにする。
▲8六銀 ▲8二と
△2五飛 △7七桂成
▲8五銀 ▲同 桂
△6五飛 △8九飛
▲8二と ▲7九飛
△7五飛 △8八歩成
▲7七桂打▲8九飛
△3六歩 △7八と
▲3三歩成▲5六歩
△3七歩成△8九と
▲3二と▲7二と
△4七と△7八飛
▲6九玉▲6八銀
なんだ? 49手目8六銀終わってる。ここは8二とが正解。これならまだ互角。
「舞鶴さん、頭のセット終わりました。もうすぐ撮影再開です」
「急かせてしまって申し訳ありませんでした」
”静香”はヘアードレッサーさんに素直に謝った。そして監督の元へと向かう。
歩きながら50手目以降を考える。
△7二金
▲4四桂
△同 歩
▲3二角成
△4二金
▲2二馬
△4五桂
▲4八銀打
△3六歩
▲4六銀
△3七銀
▲6九玉
△7九と
▲同 銀
△7七飛成
▲3七桂
△同歩成
▲4四馬
△6五桂
▲7八銀
△4七馬
▲同 銀
△5七桂左不成
▲7九玉
△6九桂成
▲同 玉
やりすぎ。途中から先手が圧倒的だ。これも遡って検討する。特に悪手はない。やはり途中まで互角と思っていた静香の大局観が間違っていたことになる。
「じゃあ、シーンKの56から撮ります。じゃあ千夜ちゃんよろしく」
「はい。皆さんよろしくお願いします」
同じセット、同じ衣装で撮影は進むが、これらは全部ぶつ切りで全然時系列にはなっていない。スナップショットのように同じ衣装、同じ場所、同じ登場人物でも仲が良かったり、お互いに不信感をもっていたりするシーンが次々に変る。中には後で夜に加工されるシーンもある。
千夜はどちらかというと役に入り込むタイプの役者だと自分で思う。感情を重視するタイプ。だが、シーンが変われば、すぐ感情表現を変えることができる。それはスナップショットのように、前のカットの感情を消して、以前撮った、あるいは未来に撮るシーンの感情を思い起こすことができるから。
「OKです。今日は順調なので、明日取るシーンも前倒ししますね。すいませんがキャストの方はまた着替えてください。撮影再開は……切りよく4時半にします」
"静香"は自分の楽屋に帰る前に少し考えた。やっぱり24手目△1四歩が拙いんじゃないか? ここを△8二歩でやってみよう。
△8二歩
▲2五飛
△3五歩
▲同 飛
△7七角成
▲同 桂
△2四飛
▲2五歩
△7四飛
▲6八銀
△2八角
▲3七角
静香は再び汚れてもよい仕事着に着替える。
△2七歩
▲3四歩
△2三金
▲3六飛
△3四飛
▲同 飛
△同 金
▲2三飛
△3七角成
▲2一飛成
△3八馬
▲同 金
△2二角
そして水筒からお茶を飲む。
▲3二歩
△8九飛
▲7九金
△同飛成
▲同 銀
△7七角成
▲6八桂
△2二銀
▲3一歩成
△6二玉
▲3二飛
△5二桂
▲4一と
△1二銀
▲2二龍
そしてトイレに向かう。
△同 馬
▲同飛成
△3七歩
▲同 桂
△2九飛
▲3九歩
△2八歩成
▲5六歩
△3八と
▲3一龍
△3七と
▲4二と
△4七と
▲同 玉
あっ、完全に後手有利になってる。また戻さないと。