210.ヘッドライナー(18)
舞台の上にも水がたまり始めているが、農場である観客席はそれどころではないだろう。足元はドロドロのはずだし、レインコートでもブランドものでもないと中までしみ込んでくるはずだ。
これはもう嵐と言っていい。もうすっかりライブどころではなくなってきた。
『みんなしばらく安全なところに避難して。再開する時にはアナウンスしてもらうから』
千夜がそう言うと耐えられなくなった観客たちが少しづつ会場を出て行く。静香は舞台の最前列まで出て観客に手を振る。舞台の奥にいても風雨はそこまで変わらない。
『みんなありがとー』
それを繰り返しているうちに、とうとうハンドマイクまで使えなくなったので手だけを振り続ける。
そこに千夜じゃないアナウンスが流れた。
『こちらはグラスベリーフェスティバル運営委員会です。荒天で今後回復が見込めないため、真に残念ですが、今年のフェスティバルは現時点をもって終了します』
ああ、残念だけどしかたがないよね。このまま続けていたら命に係わるかもしれない。ようやく諦めた観客に千夜は手を振り続けた。10万人いた観客は既に半分ぐらいまで減っていたけど、残りの半分が一斉に会場を出て行く。
表情は見えないけれどみんな残念そうな顔だ。もちろん千夜だって残念だ。こうなるんだったら、もう少し飛ばした方が良かったかもしれない。
でも千夜にできるのは観客に手を振ることだけなので一生懸命手を振り続けた。
そして千夜の前には深夜なのにライトアップされた、10万人を収容できるただっぴろい草地とそこに降り注ぐ土砂降り、そしてこんな状況でもなお諦められない観客が残った。千夜の見た感じでは100人いるかいないか。
千夜は舞台の最前列から肉声で呼びかける。
『ゴメン、今日のライブは終わったよ。みんな危ないから帰って』
ボイトレで鍛えた声は暴風雨を越えて観客に通じたようだ。だが返事はすべて風に流されて聞こえない。千夜がいる舞台から見えるのは広大な農地に降り注いだ雨が傾斜が下のこちらに流れ込んでくる。これ本当に人命にかかわるんじゃない? 千夜がここを去れば素直に帰ってくれるだろうか?
千夜は最後に大きく手を振って舞台から消えた。これでお客さんたちが帰ってくれますように。
千夜が楽屋に戻るとすぐにバスタオルでくるまれる。
「お疲れ様でした」
「残念でしたけどしかたがないですね」
「じゃあ着替えましょうか」
「いやちょっと待ってください」
千夜は明石さんを止めた。
「5分ここで待って、それでもお客さんが残ってたら、もう一回舞台に出ようと思います」
「えっ?」
「ダメですよ、もう運営から中止の連絡が出てるんですから。舞鶴さんが風邪をひいてしまいますし、それにもうアンプもマイクもつかえないです」
やっぱりだめか……
「じゃああと10分。10分待ってまだ残っているお客さんがいたら、お客さんを舞台にあげて、アコギと肉声でなんとかします。確かに独断は拙いと思うので運営に掛け合ってもらえませんか? その間に着替えておきます。また濡れるかもしれませんけど」
千夜はそう言ってバスタオルを持って簡易の更衣室に向かった。
千夜がもう一度体中を拭いて普段着に着替え終わるのに、そう時間はかからなかった。もともとそんなにゴテゴテした衣装じゃないし、メイクももう風雨で流れていた。でもこれで体も少し温まった。
「お客さんと運営はどうですか?」
大久保さんが千夜の問いに答えてくれる。
「今舞台の撤去してるんですけどまだ百人近く人は残ってます」
「運営も一応OK出ました。責任については押し付け合いになってます」
こちらとしては、このまま観客を農場に残している方が危険だという指摘をするが、運営側は中止と決まったのだから後は個人の責任。もしライブをするなら自分の後始末ぐらいしろよ、ということらしい。
「じゃあ、最初にこの後事故ったらお客さんの責任になります、って宣言してからライブを続行しますね」
それから犠牲になる楽器を選ばないといけない。多分この嵐の中で使うと解体修理コースになるし、それでも直らないかもしれない。
アンプを使わない場合、アコベよりアコギの方がまだ大きな音が鳴る。どうせ使えないからピックアップ(アコギの音を拾うマイク)は取ってしまう。申し訳ないけれど、何本が作ってもらったRR-86の中で一番新しくて一番思い入れのないものを選んだ。
「じゃあ今残っているお客さんには危険だからと舞台の上に誘導してください」
ちょうどその時、客席から撮影していた運転手兼ライター兼フォトグラファーのスージーが戻って来た。
『えっこれからまたライブするの? じゃあビデオの方がいい?』
『お願いします』
お客さんを舞台に誘導したら再び千夜の出番だ。嵐は少しはおさまっているだろうか? それまでに選んだRR-86の調弦をする。
『誘導終わりました』
結構時間がかかったが、87人の観客が残っていたらしい。
『じゃあ行って来ます』
これからこのRR-86と自分の肉声で、嵐と戦わないといけない。ライブが中断して小一時間の間待ってくれた観客を沸かせないといけない。千夜は自分に気合を入れ直すと、再び舞台へと向かった。