21.筑波紅葉(3)
対局スポンサーも当然のようにフルでついている。そのほとんどすべてが特別スポンサーだ。だから紅葉が勝てると思っている人がかなりいるということだ。
これまでナビゲーターを務めていた舞鶴さんが紅葉の目の前に座る。司会は他のスタッフが引き継いでいる。
そして急いで振駒が行われた。当然のように取られたのは本来は格下のはずの紅葉の歩。4枚の歩を見て、紅葉の勝利がほんのわずかだけ近づいた。遥かに遠い背中がほんの少しだけ近づいた。
「それでは時間になりました。二回戦を開始します」
紅葉は一回戦とは違ってまず角道を開けた。後手の舞鶴さんは少し考えてから角道を開ける。駒の持ち方もちょっとおぼつかない。紅葉は次に飛車先の歩を突いた。それに対して4手目、これも少し考えてから5四歩。
5四歩?
中飛車の予告だ。奨励会、それも段まで行った人は居飛車党の人が多い。だが目の前の人はオールラウンダーだと兄弟子から聞いている。紅葉は一直線に穴熊を狙うことにした。紅葉は居飛車のままで穴熊を組む、後手は中飛車で穴熊を組む。途中までは定石をなぞるような展開だったが、一手一手、ちょっと考えて打つところは紅葉が聞いていた天道二段の打ち方とは違う。紅葉は違和感を感じつつも定石をなぞっていく。
18手目に後手がまた少し考えて4二銀。紅葉は香を上げて穴熊の準備を整えた。24手目に千夜も少し考えて9一に玉を入れる。1回戦に続いて本局もまた相穴熊だ。
だがこんな当たり前のところでいちいち少し考える素振りを見せる。いちいち手が止まるから、チェスクロックがどんどん千夜の時間を削っていく。紅葉から見る千夜の表情は対局が始まってからずっと少し困った顔だ。
30手目に6二銀。ここにも少し時間を使ってきた。千夜の表情はだいぶ困った顔をしている。
ここに来てようやく紅葉は気が付いた。紅葉が対戦しているのは天道静香奨励会二段ではない、今、紅葉と対戦しているのは、舞鶴千夜が演じているプロと初めて公式戦で指す芸能人だ。
だとすると指し手の遅さも、自信なさげな表情も理解できる。盤面はそろそろ中盤に入るところだが、後手のペースは変わらない。いつも少し考えて、自信なさげに危なっかしい手つきで指す。金銀四枚をすべて守備につぎ込んでいる上に、それぞれもかなり守備的な手を選び、そして全然攻撃をしてこない。普通の奨励会二段ならこんな将棋は指さないだろう。だが、この駒組の間、攻め手はほぼ無かったが、付け込めるような緩手はただの一手も無かった。
仕方がない、紅葉は自分から攻撃するための準備を整えた。だが、紅葉が攻め始めると、全力で考え抜いた手が簡単に咎められる。攻めれば攻める程身動きが取れなくなる。まだ中盤なのに後手は秒読みに入る。千夜はまた困った顔をするが、おそらく全然困っていないだろうと紅葉は思う。中身は元々超が付くほどの早指しの人なのだから。
そして秒読みが始まったにも拘らず、相変わらずゆったりした指し方で、満を持して後手の大駒が動き出す。紅葉の右辺を荒らそうとしてきた。紅葉はなんとかそれを止めようとするが、その動きは簡単に躱され、瞬く間に紅葉の右辺が焼け野原にされてしまう。
紅葉の穴熊はまだ強固だが、大駒の動きは殺され攻めるにも守るにも精彩を欠きうまく使えていない。桂香は王将を守る1枚づつだけ。もう攻め手がない。一方後手の駒台には銀桂香歩が並んでいる上に竜と馬が紅葉の自陣にいる。
このまま竜と馬が利いた所にと金を作られ、さらに持ち駒の銀桂香で簡単に守りがはがされ、その剥がされた金銀で詰みまで持っていかれるだろう。ソフトで検証するまでもなく、絶対に後手が勝勢だ。
「負けました」
もう勝ち目はない。そんなことはとっくにわかっていたが、ようやく紅葉は声に出して投了した。
「ありがとうございました」
千夜がそう言って顔を上げた後の表情は、私本当に勝っちゃったの? という驚きと戸惑いがありありと表現されていた。
本当にプロの女優さんだと紅葉は思った。その後は対局スポンサーの方々と写真を撮ったりお話をしたりしたが、みなが千夜と話したがるので紅葉は惨めだったが、それでもなんとか笑顔を保った。
舞鶴千夜はその後、ブロックの決勝戦で、シードの女流二段の先生に今度は徹底した早指しかつ超急戦で攻めていた。私は何も考えずに適当に攻めています。顔つきや手つきなどの仕草は雄弁にそう語っているが、実際には相手の急所を確実に潰し、一方的に攻め続けてそのまま相手を追いこんで投了させ、一斉予選で最初の本戦進出者になった。そして自分で自分の勝利者インタビューをするというひとり芝居をして周囲の笑いを取ると、その後は完全にナビゲーターの立場に戻り、その後の勝利者インタビューをしたり、本選の抽選会の司会を務めた。
紅葉は仲の良い若手女流たちと最後まで会場に残ってその一部始終を見ていた。閉会後も少し仲間うちで話していると舞鶴さんがこちらに近づいてきていた。
「筑波先生、ちょっとよろしいですか?」
紅葉は中学生、女流2級だがプロだ。一方舞鶴さんは奨励会二段とは言えアマチュアで、しかも『プレーン女子オープン』のナビゲーター、つまり主催者側の人間だ。だがこの人に先生と呼ばれるのは非常に恥ずかしい。
友人にちょっとゴメンと言って別れてから、紅葉は千夜にささやく。
「あっ、えっと敬語とかやめてください」
「いえ、今日はごめんなさい。あなたを本当に傷つけてしまいましたね」
舞鶴さんの表情は真摯で、これは演技では無いように見えるが、紅葉にはその虚実はさっぱり分からない。
「いえ、そんなことないです。むしろかなり気を使って頂いたと思います。でもちょっとお願いしていいですか?」
舞鶴さんは微笑んで、いいですよ、と言ってくれた。
「このCDにサインを頂いていいですか。冬休みに映画を見て、その帰り道に買ったんです」
舞鶴さんは先ほどよりももっと綺麗な笑顔で紅葉にうなずいてくれた。多分私はずっと舞鶴千夜さんのファンを辞められないだろうな。紅葉はそう思った。