209.ヘッドライナー(17)
当たり前だけどケイトが去ってからもライブは続く。ずっと歌ったりしゃべったりしていると喉が持たないので、所々にインストゥルメンタルの曲を入れる。ケイトが15分も手伝ってくれたと言っても、千夜はその間丸投げしてサボっていたわけではない。
結構ギターソロの曲は世の中に多いので選曲にはあまり苦労はしない。自分のアルバムの曲も入れるし、多くの人がカバーしているような名曲も入れる。だがギターソロを頻繁に入れると退屈するお客さんもいる。
いや千夜はギタリストとしての評価も高いけど、やっぱりお客さんは弾き語りのを方を求めている。だから間奏とか後奏に入れるのはいいけど、一曲丸々を続けるとテンションが下がってしまう。
だから、ベースソロも交える。元々ベースソロ用に作られた曲は少ない。またソロといっても実は別にドラムパートがある曲もある。昨年ベースミュージックのフェスに出て、レパートリーを増やしておいて良かったと思う。
本当にベースだけの演奏は少ないし、しかも千夜は6弦のアコースティックベースを使うのでかなり珍しい。これ交えてお客さんを飽きさせないようにしながらところどころ喉を休ませる。
同じ事は手にも言える、千夜はピックを使わずに指でアコギやアコベを弾く。当然手が疲れる。インストゥルメンタルだと歌詞付きの曲よりも技巧を凝らすので当たり前。
『アコベは私のお気に入りですね。というかアコギとアコベしか弾かないから当たり前か。古い曲のアレンジでしたかがいかがでしたでしょうか? 良かった?』
再び大きな拍手が沸く。この熱気はいいね。今なら何でもやれそうな気がしてしまう。
『みんあありがとう。ではこのまま次の曲に入ります』
千夜はアコベをスタンドに戻すと。マイクスタンドのマイクを持ってステージの前の方に向かう。普通、演奏しながら歌うミュージシャンだとハンズフリーのマイクを使う。インカムみたいな奴。
だけど先ほどから少し雨がぱらついているので、より雨に強い手で持つマイクを使って、千夜は屋根の下から出てステージの最前列に向かう。雨は楽器にもよくない。
それから千夜はマイクを持って無伴奏ソロで「Everything is Forgettable」を歌い始めた。
「Everything is Forgettable」 千夜の持ち歌の中でもグラマフを制したいわば看板の曲。本来はアコギを時には美しく、時には掻き鳴らす曲だけれど、このアカペラヴァージョンではテンポを落とし、女性としてはかなり低いテナーの音域まで使ってしっとりと歌う。
声量には十分余裕があるが出力は低く抑えて全力は出さない。多分これほど静かなステージは「グラスバレー」の「カップケーキ」では初めてのことだろう。これができるのはこの時刻だけ。だから千夜はこの時に「Everything is Forgettable」をアカペラで歌うことを決めていた。
このメインステージである「カップケーキ」の裏側には関係者しか入れないバックヤードがある。そのバックヤードを挟んだ反対側には、この「カップケーキ」と背中を合わせるようにフォースステージの「ジンジャーブレッド」がある。そしてバックヤードをそのまま辿って行くとセカンドステージの「ドーナツ」がある。
当然最終日の今夜もそれぞれのステージで演目が行われているが、この時間帯だけは「ドーナツ」も「ジンジャーブレッド」でも演目の間だ。「ドーナツ」はそろそろ最後のアーチストの出番が迫っている。「ジンジャーブレッド」はラスト前の演目が終わったばかり。だから他のステージの音が、この時刻だけはこの「カップケーキ」に聞こえてこない。
もちろんもっと遠いステージでは何かやってるはずだけど、グラスバレーは広大だからね。
千夜は時には囁くように、時には語り掛けるように歌う。いつも掛け声を飛び交わす観客も静かに聞いている。テンションが落ちているわけではなくて、みんなが千夜を真剣に見ている。
アカペラだから間奏なしにそのまま2番へ、少しずつ声量とテンポを上げながら、時には遅らせたり、あるいはミュートしたかのような間をわざと作る。曲が終わりに近づくと客席から声が飛ぶようになってきた。
いいよ、みんなありがとう。
千夜がシンガーになってからどんどん広がって来た高音域の音域も惜しげなく使う。声量もボルテージを高くする。こういうのが成立するのも全部エンジニアのおかげだ。
最後はサビの部分をまた低音でゆっくりと歌い終えた。今日一番の拍手が千夜を包む。千夜はステージの一番前まで出て頭を下げた。
その時、まるで待ち構えていたかのように急速に雨が降って来た、それと同時に風も強まる。雨はあっという間に土砂降りになった。
『みんな大丈夫?』
千夜は屋根の下に入ったが、豪雨は簡易に作られた屋根など役に立たないレベルで降ってきた。いつの間にか楽器のスタンドにはカバーが掛けられていた。
こんな雨、日本だとあまり長く続かないと思うけど、このグラスバレーだとどうなんだろう。