204.ヘッドライナー(12)
懸念したとおり、千夜はアン=フェンティのライブにゲストで呼ばれた。1曲だけアコギのパートに入り、かつその曲の1番だけアンに代わってボーカルを務める。2番以降はアコギとコーラスに参加する。練習時間は短かかったけど、ステージは壊さなかったし、むしろ盛り上げることができたと思う。
ケイトは千夜のステージにもゲストとして来てもらうからお互い様だ。それにフェスが終わった後、アイルランドも案内してくれる。だが、アンは明日の朝には帰るそうなので、随分不公平な気もする。
この貸しはいつか返してもらおうと千夜は心にメモした。
もちろんその一方で、事前にメインステージである「カップケーキ」を自分の五感で体験できたのは大きい。千夜もこれまで武道館など大きな箱でライブをしたこともあるが、それでも1万5千人ぐらい。ヨーロッパでの音楽フェスティバルには昨年クロアチアで経験したがそこでも2万人ぐらい。
そういえばクロアチアではベースミュージックのフェスだったので、千夜はゲスト枠だからよく集まった方だと思う。
それに比べるとやはり10万人というのはまた違う。人間が集まることによって生じる熱気が、その場のたったひとりに向かって来るという経験はとても得難いものだったと思う。もっともゲストだから千夜が歌っている間も熱気の半分はアンに向かっていたと思うから、予行演習としてはちょうどよかったとは思う。
半分でも5万人。千夜は人に見られるのが商売だけど、アン=フェンティという当代一流の魔女が作り出した熱狂的な5万人から感じる圧力はもう物理的な力を持っているかのように千夜に襲い掛かって来た。
ゲストの1曲が終わると千夜はアンに名前を呼ばれ拍手を浴びながら舞台袖へと消えて、正直ほっとした。
あの熱気が私ひとりに向かってくる。しかも持ち時間が1時間半もあるんだよね。他のアーチストがゲストを呼ぶ理由がよくわかる。1時間半もあのねじ曲がった空間をコントロールし続けるのは大変だ。アンは千夜が歌っている時間も舞台にいたけれど、ちょっとした休憩になったと思うし。千夜以外にもちゃっかりゲストを呼んでいる。この辺り、お互い様ではあるが、千夜は自分から声をかけてくれたケイトに感謝しなければならない。
1時間半、ずっと舞台の上で演奏して歌い続ける。そりゃトークもするだろうけど、その間ずっと10万人の視線を浴び続けるのはきつい。そしてアンやケイトが千夜と違うところは他にもある。
アンもケイトも千夜のような一時的に舞台に登るゲストミュージシャンだけではなくて、自分が歌っている時間だって、常に一流のミュージシャンがバックにいる。彼らにはソロパートが与えられていて、その間は拍手でもしていればいいはずだ。
翻って舞鶴千夜どうだ。彼女はソロミュージシャン。つまりバックミュージシャンはいない。舞台で奏でられる楽器を演奏するのは、ゲストを別とすると千夜ひとり。もちろんPAとか照明とか裏方で千夜を一生懸命に支えてくれる人たちがいっぱいいるが、舞台に登るのは千夜たったひとり。
この後のケイトのステージでは全面的にバックアップしよう。そして明日はそのお返しにバックアップしてもらおうと千夜は決意した。
アンの舞台に上がる時の舞台衣装を脱ぎ、今朝のように地味な服装に着替え、美桜に手伝ってもらって髪を三つ編み結い上げ、伊達メガネといういつもの静香スタイルに変えてから、千夜はケイトの楽屋に行った。もちろん相棒のアコギ、RR-86も一緒だ。
ケイトはもう準備が粗方できているようで、リラックスしていたが、静香のスタイルを見ると手を叩いて近寄って来た。
『いいじゃん、チヨ。これなら絶対千夜ってわからないよ。ねぇみんなみんな、チヨが夕方の時の衣裳で舞台に上がってくれるって』
確かにケイトのリクエストどおりの服装で来たけれど、こんなに喜ばれるとは思っていなかった。だが、千夜にはケイトが必要だ。明日できるだけ長い時間舞台に留まってもらわないといけない。
『そうそう千夜のことをなんて紹介すればよかったっけ? 日本式チェスの女子チャンピオンでよかった?』
『ケイト、真面目な話なんだけど、私を助けて欲しいの』
『は?』
先ほどまではしゃいでいたケイトが素に戻る。
『明日ね、ゲストは1曲って言ってたけど3曲ぐらい一緒に舞台にいてくれない?』
ケイトは一瞬だけ驚いた顔をしたが、今度は手を叩いて笑い出した。
『なんでよ。チヨならひとりでも十分舞台を持たせられるでしょ? まあ3曲ぐらいいいけどさ。笑うわ』
千夜は先ほどアン=フェンティのライブに出た時のことを話した。アンのステージが終わればケイトの出番だから手短に伝えた。
『10万人の聴衆のエネルギーの奔流をたったひとりで1時間半、受け止め続けるのはちょっと辛いな、って思ったのよ』
『千夜なら全然問題無いわ。だってあなた、今まで自分の舞台で緊張したことなんてないでしょ?』
『あるわよ、ついさっきそうだった』
ライブ前のものすごく忙しい時に付き合ってくれるケイトは素晴らしい。
『あればアンのステージでしょ? チヨのステージでこの2年程で緊張したことってある?』
千夜は舞台の上で緊張したことはあまりない。おそらく小さな頃から人前で将棋を指すことが多かったからだと思う
『無いでしょ?』
『……無いわね……』
でもどうだろう。結局は出たとこ勝負になるような気がする。