20.筑波紅葉(2)
スタッフが北女流初段の歩を五枚とって振駒を行う。「と」が3枚見えた時、筑波紅葉女流2級は心の中で一つ息を吹いた。これで1回戦の勝利へ3歩ぐらい近づけたからだ。北先生は元々後手番を苦手としているが、最近は特にその傾向が強い。だからと言って相手は格上、もちろん油断はできない。紅葉は試合開始と同時に飛車先の歩を突いた。
持ち時間の30分は両者とも使い切った。だが盤面はかなり紅葉に有利に傾いている。自陣の穴熊にはまだ綻びが少ないが、相手の王の周りには金と桂馬しかいない。両者秒読みに入っているのも若い紅葉に有利だろう。その後数手で北先生が投了した。
「ありがとうございました」
相穴熊なので時間はかかったが、まあうまく勝てたと思う。問題は次だな。紅葉は勝利者インタビューの席に呼ばれた。インタビューするのはまさかの舞鶴千夜本人だ。紅葉より少し前に終わっただろう対戦の勝者がインタビューを受けており3人程の行列ができていた。今は無難な感じの受け答えが行われていた。これ1回戦は、全員舞鶴さんが対応するのか。大変だな、と正直思った。
2人目の勝利者はベテランの先生だったが、私は千夜ちゃんのファンで、などと語り始めたので長くなりそうだと思った。だが、舞鶴さんは礼を言った後、後ろの方もいらっしゃるので、と笑顔で軽くかわしていた。流石芸能人、半分芸能人のような女流棋士が相手でも対応がこなれている。その後は無難なやりとりがあって、続いて紅葉の番になった。
「次は北女流初段に勝利をおさめた、筑波女流2級です。お疲れ様でした」
紅葉は軽く礼を言った。ここでファンですなどと言ってもあしらわれるのがわかっていたので、無難に対応した。
「つぎの対戦者が、ご存じだと思いますが、実は私になります。面と向かって言いづらいかとは思いますが、意気込みをお聞かせください」
ここにきて紅葉は焦った。こういうことを聞かれるのはわかっていたはずなのに。だいたい格上の人とやる時は胸を借りるとか、負けて元々なので、とか言う。紅葉は相手が奨励会二段という自分から見ると雲の上の人であることは知っているが、それを口に出すことは許されていない。
「そうですね。私らしく全力を出し切りたいと思います。ところで舞鶴さんの意気込みもお聞きしてもよいですか?」
しまった。ちょっと踏み込み過ぎたかもしれない。質問しながら紅葉は焦ったが、舞鶴さんは柔らかく笑いながら自分にマイクを戻す。
「そうですよね。私もこの大会に出るにあたって恥ずかしく無いように、いっぱい将棋の練習をしてきました。特に奨励会員の人たちにはいっぱい指してもらったので、その特訓の成果をお見せできればと思います」
奨励会員ならば普通は大会ではなくて棋戦というはずだ。奨励会の人に、ではなくて、奨励会で指した、というのがより正しい。だが確かに嘘ではない。紅葉はそう思った。
「ありがとうございました。1回戦勝利者の筑波女流2級でした。それでは次の勝利者の方に移りますね」
1回戦勝利者の人のインタビューを次々にこなしている千夜の姿を見て、プロの芸能人なんだな、と改めて思った。だがこの後、あの人があの整った芸能人の顔で、奨励会二段の力をむき出しにして紅葉に襲い掛かってくるに違いない。
正直勝ち目はないと思う。紅葉は今女流で2級、女流転向後は結構好調で、1級昇級も現実的になっている。仮に、本当に仮にだが、今の紅葉が奨励会4級程度の実力があると仮定しても5段級差、飛香落ちが妥当なハンデとなる。だが今回は平手だ。
「では昼休みに一局指す、いや一曲歌わせて頂きます。これは夏に発売のアルバムに収められる予定の曲で、まだ未発表。この会場で歌うのが初めての公開となります。作詞にも初めて挑戦してみました。それでは聞いてください。あっ、カメラ止めてもらっていいですか? ってウソです。大丈夫です」
そう言って舞鶴千夜がギターを弾き始める。彼女が得意とする落ち着いたバラードのようだ。そうこの高音と低音の使い分けが紅葉が好きだ。歌詞も初めて書いたとは思えない。
『誰も私に気が付いてくれない』
タイトルにもなっているサビの部分。これは舞鶴さん自身の事なのかもしれない、紅葉はそう思った。
その後2曲を歌い終わった後、礼をして拍手に応えた後、彼女はギターをステージに残したまま舞台を降りた。すると彼女の姿は十重二十重の観客に遮られ、紅葉からは見ることができない。だが彼女が紅葉の元に向かって来るのがわかる。少し離れたところで対局者しか入れないエリアに入ったので、彼女の姿がまた見えた。
柔らかな微笑み。ずっと見ていたくなるが、そのままだと紅葉の負けだ。あの流麗な顔を、紅葉の力で思いっきり歪めなければならない。
紅葉の勝ち目は2つ、ひとつは先手を取りたい。将棋は先手がやや有利なゲームだ。それと兄弟子から天道二段には連勝と連敗癖があると聞いたことだ。天道二段は、1級と初段を無敗で駆け抜けたが、二段に昇段してからは2敗でまだ白星がない。そんなくだらないジンクスだけが今の紅葉を支えている。
例え相手が格上でも、絶対に負けるなんてことはありえない。それが将棋だ。