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みんなで私の背中を推して  作者: 多手ててと
前編:高校生編
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02.芸能事務所

静香が家に帰った時、自宅にはまだ誰もいなかった。両親ともにフルタイムで働いているし、どちらもサービス業なので土日は基本出勤だ。大学生の兄は帰って来るのか来ないのかいつもわからない。静香は先日両親が下拵えした素材を使って夕飯を作る。兄が帰ってこなければ、兄の分は明日の朝食の一部になる。


静香が夕飯を独りで食べた後、食卓でタブレットで将棋MAXで1分対局を続けているうちに、珍しく父と母が一緒に帰って来た。


「ちょうど駅で会ったのよ。同じ電車だったみたい」


そういう母が駅前のケーキ屋の袋を持っていることに静香は気づいた。多分静香が落ち込んでいると思って買って来てくれたのだろう。


「もう静香はご飯を食べ終わっているわよね? 私たちはご飯にするから、静香はケーキを食べなさい」


静香は両親の夕飯を温めて、自分の紅茶のためのお湯を沸かした。そしてケーキの箱を開け、チーズケーキが3つ入っているのを見た。両親はおそらく兄は今晩帰ってこないと考えたのだろう。あるいは先に食べてしまうからわからないだろうと考えたのか。


両親が夕食を食べている最中に、静香はケーキを食べながら、今日の話をした。あらかじめ伝えていたように5級に降級したことで、もう奨励会を退会することを考えていること。そして芸能事務所にスカウトされたことだ。実際、静香はスカウトされてから退会を決めたのだが、両親にはそう説明した。


「将棋は諦めて、新しいことにチャレンジしてみようと思うの」


語り終えると、両親はどちらも複雑そうな顔をしていた。


「静香は将棋の才能があると思うわ。今はまだスランプなんじゃないかしら。まだ15歳だし諦めるのはまだ早いと思うの。ただ静香の人生だから、芸能界のことは反対はしないけど、その二本松さんの肩書も気になるわね。現場サイドの人じゃないと思うから、それもちょっと心配かな」


営業部が何かを売るところなのだろうという想像は静香にもわかる。だが商品はなんだろう? やはりタレントをどこかに売り込むのだろうか?


「二本松さんは両親と話をしたい、とおっしゃっていたよ。いつでもメールをくださいって」


静香がそう返すと今度は父が答えた。


「そうか、じゃあ早めに連絡することにするよ。後は高校の準備もしないといけないよ。奨励会の事も、芸能界の事も入学前に学校には話しておいた方がいいだろうしね。あそこは静香のような特殊な立場の生徒が入る学校じゃないからね」


そうか。学校のことも考えないといけないのか。


静香は両親と今後のことを話し合った。まずは両親が二本松さんとお話をすること。その後静香の師匠と話をすること。それから学校。ああ、なにもかも上手くいかない気がしてきた。


そうして高校の入学式までの間にいろいろなことが決まった。まず二本松さんは静香の予想以上に静香を評価してくれていること。営業部というのは所属するタレントを他の会社に売り込みにいくところで、普通スカウトはしない。だがまったくないわけではないらしい。そして歌、ダンス、演技のレッスン費用は事務所持ち。正確には給料と相殺なんだけど、マイナスの場合足りないレッスン料を払わなくてもいいと言う事。多分ずっとその状態だろう。


「普通の新人は仮所属になるから、レッスン料などは本人負担になります。でも静香さんの場合は、準所属も飛ばして最初から本所属になります。これはうちの事務所でも極めて異例なので、もし他のタレントさんと仲良くなっても言わない方がいいと思います」


これが他の芸能人の卵たちより、どれだけ優遇されているのか、それが静香にはよくわからない。


将棋の奨励会員であることも、学校のことも話をしたが、おおむね理解してもらえたようだ。さしあたりはレッスンが中心になるので、芸能活動は学業や将棋の合間で構わないと言われたのは驚いた。そんなので芸能人と言えるのだろうか?


その数日後、恐る恐る訪れた師匠の大江九段からは、落ち込んだ時に気分転換することはいいことだ、といつもの厳しい師匠を知る静香には信じられない発言が飛び出した。もう見限られてしまったのかもしれないと思ったが、一方で奨励会を辞めるのは早すぎる。奨励会の対局日だけは将棋会館に来るように、それ以外勉強会はもちろん、普段やってる詰将棋とか棋譜並べとかは静香のペースで自由にしてよいとの了解を得た。


大江九段は今まで7人の弟子を取った。そのうち既に5人が将棋を辞めていて、1人は20歳で2級だからプロになれる可能性は限りなく少ない。唯一可能性があるのが、一番年下で唯一の女性である静香だ。5級に落ちたとは言えまだ15歳だし、女性だから女流の可能性がある。それに12歳の時には2級だった。


あの頃の静香は良く話し、明るくよく笑う魅力的な少女だった。だが、ある日を境に容姿を変え、口数もめっきり少なくなった。それから奨励会での連敗が始まった。だからもし気分を変えることができれば、また調子が戻るのではないか、今回のことがその契機になるのではないか、というわずかな期待もあった。


上手くいかなかった場合5級で降級すると6級。さらに降級すると7級。7級はあまり一般的な制度ではないので、6級から降級というのはほぼ辞めることになる。だが辞めるにせよ、女流に転向するにせよ、早い方がよいだろう。


そして大江九段自身も既にC2からフリークラスに落ちており、再来年には60歳になるので定年が決まっている。


そして高校、静香は偏差値の高さと、将棋会館に近い千駄ヶ谷の聖瑞庵高校を選んだ。あと私立でかなり自由が利く学校だという口コミを見たことがあるからだ。だがまだ入学すらしてない段階で三者、いや四者面談をするなんていうのも前代未聞だと思う。この面談には父、静香、校長と担任(予定)、そこになぜか二本松さんまでが加わっている。


「私どもとしましては、そのあたりは生徒さん本人が自覚をもって行動し、個々の才能を伸ばして頂ければ、と考えております。事前にご連絡頂ければ、行事はともかく、試験などについては相談させて頂きます。ただ、一つだけお尋ねしたいのは、本名で活動されるのかどうかということです」


それは師匠にも相談し、奨励会幹事の先生からも聞かれた。


「いや、芸名を使おうと思います。舞鶴千夜まいづるちよという名で活動する予定です」


本名の静香もそうだが、それ以上に昭和の薫りがする芸名だ。


師匠や奨励会幹事の先生はこの芸名にぴんときたようだが、学校の先生にはこの由来は分からないだろう。静香の苗字である天道は、将棋の町、山形県天童市と同音だ。天童では桜の時期に有名な人間将棋などが行われるが、その会場が舞鶴山で、芸名はそこに由来している。


「そうですか、頑張ってください。またなにかあればご相談ください」

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