194.ヘッドライナー(2)
4月も早々に講義が始まる。静香のクラスの人数は減っただけで増えていない。つまりTPLを辞めた人が何人かいるが新しく入って来た学生はいないということだ。
「まあ、私も静香がいなかったら辞めてたかもね」
生協の食堂で純子がそんな事を言う。
「だってこの大学に来たのは医者になるためだから。語学は卒業してからでもいつでも必要になった時に学べばいいでしょ? 幸い私は語学は苦にならないし、静香や美桜とも仲良くなれたしね」
純子は日本語、英語は完全にネイティブ。中国語も台湾で全然苦労している様子はなかったけれど、フランス語、スペイン語、ドイツ語の方が上手く話せると聞いている。西洋の言葉が多いから大学では中国語を学ぼうと思ったという人間だ。いろんな国での滞在歴があるが、アメリカが一番長いらしく、明るく開放的な性格だから友だちが多い……と思う。
美桜は日本語と英語とスペイン語がネイティブに話せる。それで既修者クラスとはいえ、スペイン語を選択しているのはずるいように思えてしまう。彼女も陽気で親切だからやはり友人が多い……と思う。
冬学期の時、美桜との待ち合わせ場所に行くと、誰か知らない女子と楽し気に話していた。
「友だち?」
と聞くと、いや初めて会った人で、他の大学の院生だって、との答えがあった。こういうことは初めてではないし、女子だけではなく男子とも良く話をしているのでもう驚くことはない。ただ純子や美桜が仲良さげにしていても、彼女たちは友達と認識していない可能性がある。
ふたりにとっては一般的な同じ大学生への対応であったとしても、相手側が感じる距離感は違うと思われる。実際ふたりはモテる。だがそれを受けたという話は聞いたことが無い。
『今はステディを作るつもりはないわ。静香程ではないけど、私もそれなりに忙しいし』
「私は最近家庭教師の数が増えすぎたので、もうマッチングサイトへの登録は辞めたのよね」
そういえば元々3人しかいない理Ⅲ3組は、2年になって静香と純子のふたりだけになった。ひとりしかいない男子がTPLを辞めたからだけど、その理由はTPLではなくて純子に原因があるのかもしれない。聞いたらあっさり答えてくれそうな気がするが、静香は聞かないでおくことにした。
純子も美桜も、人との距離感が普通の日本人とは違う。そう言うと静香もでしょ?、と言い返されるが静香は千夜としての仕事がら努力してそうなのであって、純子や美桜のような天然ものではない。
『今度三人でどこかへ行こうよ、私結構日本で行ったことないところが多いのよね』
「純子は大学まで日本にはいなかったものね」
失礼なことだけど、山田純子という名前から受けるイメージと風貌や言動とのバランスが悪いと思う。本人は自分の名前を気に入っているらしいのでなおさら失礼なことだ。
「でも静香は時間無いでしょ?」
美桜の問いかけに静香は考えた。
「そうね」
そこで静香は先日の両親の言葉を思い出した。『グラスバレー』に行かないかどうか誘った時の会話だ。
『私たちは別に音楽に興味はないのよね。いや勘違いしないでね、静香のことはとても大事よ。将棋大会にもよく行っていたでしょう? でも音楽のことは良くわからないし。社会人になってからは英語も使わないからさっぱりだわ』
と、将棋のわからない母が言っていた。父は将棋にはそれなりに詳しいが、他の点では母と同じだ。だから両親ではなくてこのふたりを誘うのはアリかもしれない。
「学校をさぼることになるけど6月の終り頃、イギリスで『グラスバレーフェス』っていう音楽フェスに出るんだけど一緒に行ってみる? まあ事務所の人にも相談してからだけど」
5月のニースにも招待されているけど、それは本当に強行軍で0泊2日、正確には移動時間が長いからもっと酷い状態なんだよね。仮に美桜や純子と一緒に行けたとしてもふたりも楽しくないと思う。
一方6月のフェスだとふたりもそれなりに楽しめると思う。千夜がヘッドライナーを務めるのはフェス最終日の一日だけ。当日はもちろん、前日もケイトリンのライブにゲスト出演するし、他の関係者と話をしたり、リハもしっかりしないといけないので忙しいだろうからふたりと一緒に遊ぶことはできないだろう。
でもこのふたりは少なくともフェスは楽しめるはずだ。ふたりとも多趣味だから音楽もばっちり守備範囲に入っている。イギリスだから言葉の壁もこのふたりには無縁だ。英語と米語は違うところもあるが問題ないだろう。
そしてフェスの次の日はフリーなので、ロンドンあるいは湖水地方、スコットランド、アイルランドなどのどこかを3人で旅行するというのもありだ。
もっとも最初に断ったように、事務所がNGを出す可能性もある。だが先日の明石さんの言葉から考えると、正面から反対されることはないのではないかと思う。
「行くわ」
「私も」
静香の誘いにふたりは即答してくれた。