193.ヘッドライナー(1)
春休みの間も千夜は仕事で忙しかったけれど、自宅でも仕事場でも、暇があれば千夜はギターを弾いていた。練習ではなくて作曲のために。
作詞は他の創作活動と同じで、セオリーがわかればある程度までは作ることができる。文章を書くこと、絵を描くこととそこまで違いはない。実際千夜は歌詞を書くことにはあまり困難では無かった。日本語でも英語でも。
でも作曲に対してハードルの高さを感じるのは強いの動機とセオリーを教えてくれる教師が少ないことだ。幸い千夜にはその両方が揃っていた。
数多くのコードやスケールについては既に身についているから、適当に掻き鳴らすだけでもどこかで聞いたようなメロディは作ることができる。そしてこれまでにも、こんなのでいいのかな、と言われそうな曲を作った事は何度かあった。
だがそれらの曲は残念ながら、大蔵先生や、イブラヒムが作る美しい旋律にはとても及ばないもので、アルバムを通して聞くと錚々たる作曲家が作ってくれた名曲と比べると、明らかに他の曲よりも悪い意味で浮いていた。
つまりグラマフ賞を連続で勝ち取ることができる、世界でも指折りの若手実力派シンガー……ホントか?、に歌わせてそのアルバムに収録されるレベルの曲ではない。ただ某有名歌手が自分で作曲した数少ない作品ということだけがセールスポイントで、アルバムの片隅にひっそりと収められている。それが千夜が自分で書き上げた今までの曲の実情だ。
千夜がアーティストと名乗るためにはやはり自分で曲を作らなければならない、千夜はそう思う。それは自分で作詞作曲しているアーチストたちとの交流する際に千夜にとってコンプレックスになっているし、それにちゃんと自分で作詞・作曲した曲であれば当然印税だって入って来るという計算高い野望もある。仮に……あまり考えられないことだけど、千夜が大学卒業後に芸能界を辞めて、しかも将棋も振るわなくなったとしても、ヒット曲があればその印税がサブスクなどで入って来る。
正直高すぎる目標だとは思うけれど、設定さえしてしまえばどんな目標でも乗り越えられる、そんな根拠の無い自信だけは今の千夜は持っていた。中学生の時にはとても考えられないことだけれど。
「短いですけど、今の曲はどうでしょう?」
レコーディングのちょっとした合間、静香は他のミュージシャンやスタッフに聞く。
『えっと、本当に本音を言っちゃっていいんですか』
『もちろん。是非、忌憚のないコメントをください』
『じゃあ容赦なく言いますね。普通の高校生が書いたと聞いても駄作です』
そう言って素直な酷評を貰ったこともあるが、練習はするもので、最近は風向きが変わって来た
『ああ、サビの部分はいいですね』
『えっ、何か急に上手くなってません?』
『これいいフレーズだからちゃんとした曲に仕上げましょう』
こんな感じで良い評価を貰えるようになってきた。もちろん先はまだまだ長いけれど、目標は『グラスバレーフェス』で新曲を披露することだ。あと2か月半でそれができればいいのだけれど、果たして間に合うだろうか?
静香は6月にイギリスのロックフェス『グラスバレー』にヘッドライナーとして参加する。場所は4キロ平米もの広さの農地を利用しており、ステージは大小合わせるとその数が100近いという、世界でも最大級のロックフェスだ。当然参加するアーチストも多いし参加者に到っては20万人を超える。
そしてヘッドライナーというのはその多くのステージの中でも10万人を収容するメインステージをその日に使うアーチストでフェス全体の顔と言ってもいい存在だ。千夜は最終日のヘッドライナーでその前日はケイトリン。お互いのステージにゲスト出演することになっている。
そこで自分の作った曲を披露できればと思うが……間に合わなければそれはそれでレパートリーも増えたのでなんとかなるだろう。そんなことを考えていると明石さんから一言あった。
「舞鶴さんは海外に行く時にご家族とかご友人とか連れて行かないですよね。『グラスバレー』にはご両親などご招待されないのですか?」
静香の両親はそれなりに裕福だけど、それは不労所得があるわけでも、高い地位についているからでも、財テクに長けているからでもない。ちゃんと残業代が出るまともな会社で、忙しく働いているから都内に住んで子ども二人を大学に通わせることができている。
兄は小学校から大学まで国公立だったけど、静香は中高と私立だ。中高一貫校だったのに高校受験して将棋会館に近い場所にある聖瑞庵に転校……ではないけれど学校を変えている。
今なら、その気になれば静香が家にお金を入れることもできるが、お金は受け取ってもらっていない。学費や交通費、衣類や遊び金は自分の収入(自分が作った医療法人への寄付を差っ引いて残る年収300万円)から出しているが、家にいる時の食住は親のお金だ。
6月の終り……誘っても両親には断られるだろうなあ……と思いながら家に帰ってその話をするとやっぱり断られた。
思いっきり寝過ごしました。