190.台湾研修(5)
陳教授が貴賓室を出て言って扉を閉めると、老人がまた大きな笑みを浮かべた。
『儂と陳先生は長い付き合いなんよ。日本でもそうらしいけど整形外科医と中医はそこそこ繋がりが強いからな。短い期間やけど儂が直接教えたこともある。初めて会った時からあんな感じで全然うち解けてくれへんねんよ』
ということはやはり陳教授と楊老師の間には昔から強いつながりがあったということになる。
『なるほど。それで陳教授は真っ先に楊老師を私と会わせていただいたのですね』
静香は目の前でにこやかな笑みを浮かべている中医の大家からなにを学ぶべきなのかを考えた。午前中はふたりきりの雑談で、午後は対談。
『まあ、あの子は儂が千夜ちゃんの大ファンやって知ってるからなあ。儂はあんまり台北には出てきたぁ無いねんけど、千夜ちゃんに会えると聞いたから、昨日の朝にはもう高鐵(台湾高速鉄道の略称)に乗らずにはおられなんだ。そんなに早よ来てもしゃあないのになあ』
だから午前中は静香が聞きたい事を、午後は他の学生が聞きたい専門的なことを話すべきだ。だが準備をしていなかった静香に中医の知識は無い。
『わざわざ前乗りまでして頂いてありがとうございます。おそらく老子が台北にいらした頃、私はまだ桃園空港にも着いていませんでした』
だからその準備をこの午前中にしておかなければならない。
『そら、千夜ちゃんも忙しいことやなあ。そうそう。ベルリナーレおめでとう。まあ千夜ちゃんなら獲れると思ってたけど、ああいうのはいろいろ政治的な話とかもあったりするんやろ?』
雑談が終わったらまずは午後のネタを相談しよう。
『どうなんでしょうね? 噂は色々と聞きますけれど、多分誇張されたものが多いと思います』
『せやろなあ。華やかな所ほど本当の事はわからんわ』
最初の雑談はこのあたりでいいだろう。静香はいきなり本題に入ることにした。
『私が楊老師から学ぶべきことは多くあると思います。ですが午後から学生たちの前で対談があることはご存じですか?』
目の前の老人は鷹揚にうなずく。
『流石にそれは知っとるで。淑芬も汚いやり方ができるようになったなあ、って思たわ』
楊老師は、つい先ほどまでは陳教授と呼んでいたはずだが、いきなり淑芬と呼び捨てだ。多分普段はそうなのだろう。もしかしたら、顔は笑っているけど、この辺りは少し嫌なのかもしれない。
『普段は対談など、されないのですか?』
『しても儂に何もええことないやろ? それに、もう人に教えなあかんもんは大学にいる時に出し切ったわ』
なるほど。好々爺に見えるけれど、そのあたりの線引きははっきりされているようだ。だが舞鶴千夜のファンだということは良く知られているのだろう。この数分の様子を見ていても本人に隠す気がなさそうだし。
だから陳教授は私をダシに楊老師をこの大学に連れて来て学生に話をさせようとしている。そして静香は中医の真髄の一端に触れること事ができるわけなので、皆が得をしている。あとはこの皆がそれぞれ得ることができる得を大きくするのが静香の役割だ。
この楊老師というおそらく自他ともに認める千夜のファンをいかに幸せにできるか。これで今日の一日が、誰にとっても無駄なものだったのか、それとも皆にとって有意義なものだったのかが決まる。
でもそれはなんだろう。静香は素直にそれを聞いてみることにした。
『わかりました。私は老師に何ができるでしょうか?』
その言葉に老人は即答した。
『なんでもええよ。儂はこうやって千夜ちゃんとただ話をしてるだけで十分幸せやからなあ。アルバムもビデオも販売された奴は全部買ってるし、日本にライブを見に行ったことも何回かあるわ』
興奮気味に話したからかもしれない。老人は席に最初から置いてあった湯呑で口を潤すとまた話しを始めた。
『せやから儂は今こうして話をしてるだけで幸せやねん。もっと言うなら儂が何か千夜ちゃんの役に立てたら嬉しいなあ』
この人筋金入りのファンだ。
『それでは、私がいろいろお尋ねしますね』
ソファに深く腰掛けた老人がうなずく。
『私は中医について何も知りません。失礼な質問になるかもしれませんが、中医と西洋医学はまったく違うものですか?』
老人は相変わらず笑ったまま答えた。
『いや、一緒のもんやよ。ちゃうんはそのアプローチの違いだけやね』
『アプローチですか?』
『そうやね。乱暴に言うたら、西洋医学は身体の中の悪いものを取る、あるいは壊れているものを直す、つぅ方法やね。中医はもちろん西洋医学の影響を受けとるわけやけど、比較したら悪いところだけ直すんやなくて、体全体のバランスを取る、そしてバランスを取り続けるのが中医やね。バランスが崩れたら、それなりの時間をかけて戻して、その状態を保つ』
老人はまた茶を飲んだ。
『多分千夜ちゃんが言いたいのは、陰陽五行の話やろ? 西洋医学かて中世やと神学に引きずられたやん? 中医は陰陽五行に引きずられてた時間が長かったな、とは思う』
そうか、この方は陰陽五行説を切り捨てたのか、と静香は思った。