189.台湾研修(4)
陳教授の話を静香は歩きながら聞いた。
『でもあなたは他の研究者とは少し違います。下衆な話ですが、私財は十分にお持ちですし、先ほどまでお話したように、人脈が必要であれば、あなたから連絡すれば多くの人が扉を開くでしょう。もちろんあなたがそのための時間と努力を続けていることは私もわかっています』
それだけ言うと、陳教授は黙って歩き始めた。静香は少し考えた。そう、自分はまだなにも研究していない。おそらく卒業しても、今の活動を続けるのならば研究どころか臨床をしている時間すらない。それが本当に正しいことなのかどうか、それは全然わからない。
『では早速、先ほどお話した中医の楊先生がいらっしゃる部屋にお連れします。実は約束の時間は午後だったのですが、随分と早くいらしたのです。申し訳ないですが私は仕事があるのですぐに席を外します』
つまり楊先生とふたりっきりということか。まあ経歴をお聞きしていると結構ご高齢の方のようだから問題ないだろう。
『午前中は他の者がおりませんが、午後から1時間は先生のお話を聞きたいという学生がいますので、彼らの前で対談して頂くことになります。彼らにとってもあなたたちの対談を聞くのは重要なことだと思うのでご容赦ください』
どうやら午後からは公開対談のようだ。
でも現時点で既にこちらにいらっしゃるということであれば、話したいことはもう午前中で終わってしまうような気がする。そうなると午後の対談を意識した会話が要求される。
静香は中国語は勉強中の身だが、困ったところがあれば今もそうしているみたいに英語を使えばいい。問題は午前中にいかに午後の話の種を探して、それを午後の聴衆たちに聞かせるのかだ。それには舞鶴千夜としての技量が試されるところだ。静香の不安そうな気持が伝わったのだろう。陳教授が歩きながら話し続けるが、彼女は静香の心配事を少し勘違いをしているようだ。
『大丈夫です。今回の対談は、楊老師が対談するとしか触れていません。おそらくは中医に興味のある学生が集まるはずです。楊老師の対談の聴衆の募集を締め切ってから、あなたがこちらに見学に来ることを学生に伝えています。なにぶん同日なので、気が付いている察しの良い学生もかもしれませんね。朝の様子を見ると潜り込もうとする者もいるかもしれません』
つまり天道静香はおろか、舞鶴千夜に対しても興味がないどころか、存在さえ知らない真面目な中医を目指す学生が多数を占めるかもしれないということだ。
これが千夜のライブであれば、聴衆はお金を払って千夜の歌や演奏を聴きに来てくれた人、即ち千夜のファンがほとんどだ。だから千夜がつまらないことを言ってもそれなりの反応が返って来る。同じように静香が将棋について語る時も、相手は将棋と静香に興味を持っている人だ。
つまりこれまでは自らのフランチャイズの中で、甘やかされた環境でMCをしていたということになる。それに比べると今回は完全にアウェイ。あの日本人、國語(台湾で教育などに使われる標準語)も碌に操れないのに、楊大師になに馬鹿なことを聞いているの?、と思われてしまう。観客に飽きられないように自分が今持っているスキルを総動員しなければならない。
そして廊下のとある扉の前で陳教授が足を止めた。扉の上に掛けられた札には「貴賓室」と書かれている。陳教授が扉を叩き扉を開いたので、静香もその後に続く。部屋の中はその名前の割にはソファが置かれているだけで、取り立てて豪華な感じはしない。
そこにはもう白髪を長く伸ばした初老の男性が立ち上がって静香を出迎えてくれた。この方が楊老師なのだろう。
『おお、ほんまもんの舞鶴千夜ちゃんや。やっぱり映像で見るより実物の方が綺麗やなあ』
くっ、國語だけど台湾語のなまりが混じっている。台湾語は中国福建省にルーツを持つ方言で、台湾では高齢者や南部では普通に使われている。発音も違うし日本でいう中国語の四声が八声になるので、本物の台湾語は静香には理解ができない。
陳教授がわざとらしく咳払いをした。
『いやいや、陳教授が綺麗やないて言うてるわけやないんやで。悪ろうおもわんといてな?』
陳教授の声が若干硬くなったような気がするのは静香の気のせいだろうか?
『違います。天道さんは普通語(中国の標準語)を学び初めてまだ1年たっていないのです。楊老師もはっきりした國語(台湾の標準語。普通語に近いが文字は普通語が簡体字で日本の漢字よりも簡略化されているが、國語は繁体字で日本の旧い漢字になる)を使ってください』
『すいません。天道靜香です。楊老師、本日はお忙しいところ私のために遠くからお越し頂いて、申し訳ありません』
老人は破顔一笑した。
『そんなこというたら千夜ちゃんの方が遠くまで来てくれたやん。ドイツからの帰りに寄ってくれたんやろ? 暑ない?』
「完全沒有問題」
『では天道さん、午前中は楊老師のお相手をお願いします。私はこれで』
「非常感謝陳教授」
「不會。再見」
そう。「謝謝」に対して「不客气」と返すのが大陸の普通語だ。だが台湾なら「不會」が一般的だ。本当に言葉は難しい。
google翻訳にお世話になっているので、間違っていてもお許しくださいませ。