188.台湾研修(3)
大理石骨病。静香はこの病気の事をつい先日まで知らなかった。
『この研修プログラムの予定が決まってから調べました。私の大学にも骨粗鬆症センターがありますので』
大理石骨病。骨が硬くなり、同時に脆くなるという希少疾患。遺伝が原因とされており、軽い症状であれば自分の骨が脆いことに気を付ける必要がある。そして視力聴力に障がいをきたす場合がある。
これが重い症状であれば、それは出生時やその直後に発見され、様々な症状を引き起こし、生存率が非常に低い。他の子が小学校に通う年齢まで生きられない可能性が多い難病となる。現時点では効果的な治療法はまだ確立されていない。
この優しそうな先生がそのような難病と闘い続けている。あらかじめ下調べはしていたけれど、その本人の口から聞くとまたその病気の名前だけで重さが違って聴こえる。おそらくその患者を目にすればよりその重さを思い知らされるだろう。静香は身を引き締めた。
陳教授は廊下を歩きながら静香に語り掛ける。
『幸いなことに、今、ここには重度の大理石骨病患者はいません。ですが他の病気で苦しんでいる患者はいっぱいいます。天道さんもよくご存じだと思いますが、私たちが手助けできる病気もあれば、そうでない病気もあります』
『はい……』
救えない命があるのは確かなことだ。静香は短く返事をした。
『あなたは卒業した後、そういった病気を少しでも無くそうと考えていると、そういった組織を作ろうとしているという話は私も聞いています。あなたにはそれを実行するための財力をもっていますし、それ以上に多くの人を動かす力を持っています』
今度は静香はなにも答えなかった。答えることができなかった。
『先ほどの生徒たち……一部、医学院以外の教授も潜り込んでいましたが、あの場にいた人間は、次にあなたが何か頼み事をしたらそれをかなえようと全力を尽くすでしょう』
静香は無言で歩き続けた
『同じようにあなたに声を掛けられたというだけで、あなたに協力しようとする医者や患者がいるでしょう。あなたが願えばそれをかなえようとする政治家や資産家もいるでしょう。そして未だに医学の恩恵を受けられない不条理に直面している人の存在を知らない多くの人たちも、あなたの声ならば真剣に聞くでしょう』
静香は今度は首を縦に振らなかった。
『私はそこまで力を持っていませんよ』
静香がそう言うと陳教授が振り返った。
『あなたはまだ若いから仕方がないかもしれません。でもちゃんと自分の力を自覚した方がいいでしょう。今日はこの後、台中から来た中医を紹介します。楊建良先生です』
中医とは日本でいう漢方医のことだと思ってもらえればわかりよい。正確には日本の漢方は日本で独自に発展した部分が大いので、中身は大きく異なる。台湾では身近な診療所として、軽い病気や慢性的な病気の人の体調を整えるために通うことが多いと静香は聞いたことがある。
『日本でも同様のようですが、台湾で中医になるには私たちと同じように大学で医学を学ぶ必要があります。楊老師の場合は私たちのように西洋医学を学んだ後に中医を学び、その後研究者になり、長い間大学で教鞭を取りました』
日本では医学部を出てからどの専門医になるかを選択するが、その中のひとつに漢方医がある。だが実際には漢方医よりも、薬学部を出て漢方薬を処方する薬剤師のイメージが大きいのではないだろうか。
『既に教授を退いていますが、楊老師は今でも一流の中医理論家として尊敬されています。大学を辞めてからはめったに自宅から出てきませんが、あなたの名前を出せばふたつ返事でこの台北に来ると言いました。彼の経験と理論は、これから西洋医学を学ぶあなたにも大きな刺激になるでしょう』
『ありがとうございます』
静香は陳教授に頭を下げた。
『それから、あなたは医療のデジタル化について興味を持っていると聞きました。ですから明日はそれを作り上げた人に会いに行きます。今この島では最も多忙な人で、デジタル担当の政務委員の地位に就いています』
「為什麼?」
なぜ? どうして? 静香は思わず聞き返した。政務委員は日本で言えば大臣にあたる。
『それはあなただからです。明後日の予定は決めていません。あなたがこの国で会いたい人がいるのなら、今台湾にいればですが、あなたはその人に会うことでできるでしょう。私はただあなたが会いたがっていると一言電話するだけで事足ります。もちろんこの病院や大学で見たいことや、話したい人がいればそこを紹介しますので考えておいてください』
陳教授は再び歩き始めると静香に告げた。
『当たり前のことですが、なにかを研究するためには協力者と資金が必要です。私もこの大学に所属し様々な支援を受けていますが、それでも十分とは言えません。おそらく、医学に限らず世界中の研究者の誰もがそうでしょう。自分の研究を続けるためには、研究以外の様々な時間と努力が必要です』
陳教授は歩きながら、なおも静かに話し続けた。