182.公共放送杯(1)
大海ドラマの撮影は様々なところで行われる。特に時代物であればその映像中に、時代に存在しないものが映りこむようなことは許されない。やむを得ない場合はデジタル処理で消す場合もあるが、それは最後の手段、屋外で撮影する場合ロケ地は入念な調査の上で選ばれる。もちろんカメラの角度等についても当然計算される。
そして屋外に作られたセットで撮影されることもある。このドラマでは、専用に作られたセットが用いられている。これが江戸時代だと、よく使われる場所もあるのだけど、時代設定が奈良時代よりも前だから仕方がない。
そしてスタジオで撮影されることもある。公共放送センターにはいくつもスタジオがあるが、そのうちCT-101は1100平米の広さを持つ国内最大級の広さを誇る大きなスタジオだ。
大海ドラマは普段、CT-106というCT-101の6割程度の広さのスタジオを占有している。このCT-101は主に生放送で使われることが多いが、この2週間ほどは大海ドラマの大規模なセットが組まれている。
当然主役を務める静香もこの巨大セットのあちこちで撮影を続けていた。
「カット」
あるシーンの撮影が終わった頃、明石さんが監督と静香に声を掛ける。
「舞鶴さん、時間がもうありません。急いで着替えて移動してください」
スタジオ内の時計を確認しようとしていた静香はすぐに臨時の更衣室に押し込まれ、急いで着替え髪を整えられる。飛鳥時代っぽい和服から淡い桃色のスーツに着替え、そして古代風の髪型から現代の髪型に整えられる。あちらでの撮影が終わったら、また元の服装に戻るのかと思うと面倒だけど仕方がない。
主演女優が慌ただしく別のスタジオに去った後、脇役だけのシーンの撮影が続けられた。
しばらく、「大海人皇子」のシーンの撮影が続いた後、監督が撮影を中断した。
「そろそろ時間だよな。CT-108の中継って映せる?」
CT-108はこのCT-101の5分の1ほどの大きさのスタジオだ。それでも畳で言えば、140畳ほどの広さがある。そのスタジオにある2台のカメラが映す映像が、CT-101内に設置された大型スクリーン2台にそれぞれ映し出される。
「おお!」
大海ドラマの制作陣にはベテランも多いし、このドラマに出演する役者は売れっ子が多いので、このセンターの中のスタジオからスタジオをハシゴする俳優やコメディアンも少なくない。先ほどまで一緒にスタジオで撮影した役者が、別のスタジオでバラエティ番組に出ているなんてことが、日常茶飯事になっている。それなのに彼らの何人かの口から声が上がった。
『最近負けっぱなしだから、今日は勝たないとね』
音声もちゃんと拾っている。
『今年度私、御厨先生とは1回しか当たってないですよね』
『星雲戦の決勝で負けたから、今日はリベンジしないと』
対戦前の棋士というものはあまり話さないものというイメージがあるが、このふたりはそうではないらしい。
『時間長い棋戦だと私が御厨先生のところまでたどり着けないですからねえ』
『そう? お互い次勝てば鋭王戦であたるでしょ?』
『私の次の相手、月影先生なんですけど』
『僕も櫛木先生が相手だよ?』
先ほどまでここで主演していた人が将棋を指そうとしている。それが大海ドラマのスタッフたちには新鮮だった。
『俺のこと言われてるやん』
『もうすぐ対局なのに仲良くしゃべってらっしゃいますね。御厨先生っていつもこんな感じなんですか?』
『まあ相手次第やね。俺相手の時は結構しゃべるかな? でも天道さんのこのピンクのスーツ着こなすのんムズいと思わん?』
『私なら買わないです』
いきなり第三者の声が入って来た。これはもう一つのカメラ、つまり解説と聞き手の声を拾ったのだ。この対局の解説は月影二冠、司会は向田白銀、という顔ぶれだ。この棋戦では解説は毎週変わるけれど、聞き手も兼ねる司会者は年間を通じて務めるので、今年度は向田女流四段(今年度開始当時)が務めていたということになる。番組の司会者を勤めている傍らで、女流棋戦のタイトルの中でも最上位である白銀を奪取したため、ギャラも上がったなどという噂があるが真偽は定かではない。
だが、このCT-101にいるテレビマンたちのほとんどは、せいぜい御厨名人ぐらいしかわからない。
「これってどうなってるの?」
監督の問いに、大田皇女役の鳥居由美が答える。劇中ではそろそろ死んでしまうので、鳥居由美の撮影は今日が最終日だ。
「前に千夜ちゃんに聞いたことがあるんですけど、棋士の声は解説側に聞こえますけど、逆は聞こえないらしいですよ」
へーっ、とか、そりゃそうね、と周囲のテレビマンの何人かが声をあげる。もちろん内心、何でこいつら知らないんだ、と思う囲碁・将棋のテレビ棋戦に関わったことのあるスタッフもいるが少数派だ。この中では鳥居由美が詳しい方になるが、その彼女も知らない事がある。これは決勝戦なので、先ほどのはただの検分とテストのようなもので、本番は出演者全員が集まって始まるということを。
『先生方すいません、そろそろ本番なのでスタンバイ願います』
『わかりました』
あちらはそろそろ本番らしい。大海ドラマのスタッフや出演者は、当然ながら主演女優である舞鶴千夜の事は良く知っている。だが、大画面の向こうにいる天道静香の事は、普通の業界人程度にしか知らない。
これから何が起きるのか。彼らも将棋を知らないなりにこの一戦に注目していた。