172.日本歌勝負(11)
自分の曲が終わったので、客席からの拍手を受けながら、ここからほんの少しの間だけ、千夜は本来の司会の仕事に戻る。
「ご清聴ありがとうございました。紅組、舞鶴千夜でした。それでは、次はいよいよ紅組最後の出場者の登場となります」
千夜の言葉から一呼吸置いたタイミングでイントロが始まる。そしてバックミュージシャンを載せた大きな舞台が袖からスライドしてくる。邪魔にならないように折りたたんだパイプ椅子を持ったまま、イントロに合わせて千夜は司会の仕事を続ける
「今年の紅組のアンカー務めるのはこの方、私の憧れでもある中谷雪実さんです。曲は今年の毎朝ドラマの主題歌になった『下り坂の果て』です。それではどうぞ」
そしてイントロ中に雪実さんが入って来る。そして千夜は反対側に抜けるのではなく、ようやく固定されたバックミュージシャンたちが座る椅子の中にある隙間へと向かいそこに持ったままだったパイプ椅子を拡げて座る。
ちゃんとスイッチングしてくれているかちょっと不安だったが、最初の一掻きで安心した。千夜は弾き語りの時はピックアップ、つまりアコギの音を拾うためにコンデンサーマイクを使っていた。その方がアコースティックギター本来の音が伝わると千夜は思う。
だが、これはアコースティックベースではより顕著なんだけど、コンデンサーマイクだと近くに他の楽器があるとその音を拾ってしまうというリスクがある。もしそうなってしまった場合は、結果としてハウリングが発生してしまう。舞台はぶち壊しだ。
この舞台の音響さん、つまりPAはものすごく優秀だけど、それでもハウリングをコントロールするのは難しいので、リスクはできるだけなくした方がよい。だから雪実さんのバックを務める時には、コンデンサーマイクを切って、逆にこれまで切っていたハウリングを起こしにくいマグネティックピックアップで音を拾ってもらうという手はずになっている。
ちなみにわざとふたつ以上のピックアップを同時に使うことで音の表現を深める方法もあるが、千夜はソロではよりアコギらしさを出すためにコンデンサーマイクだけを用いた。そして正直に言うと使わないマグネティックピックアップが付いていると、パーカッションが千夜としてはやりにくくなるのだけど、今回は仕方が無い選択だった。
さて、この曲の一番、千夜のパートは普通にフィンガーストロークでコードを奏でるだけなので問題はない。問題は2番だ。千夜は雪実さんからもらったコンサートビデオを何度も見たから多分大丈夫だと思うけど、ゲネプロ一発だから、ほぼぶっつけ本番。よく公共放送の人がこの企画を通したなと思う。
1番が終わる時に千夜は立ち上がって間奏でギターソロに入る。ああ、人のライブにゲストで入るのってとても怖い。だからといって安全側に寄りすぎるとライブとして面白くなくなる。
夏のアウトスタンドフェスで、千夜のライブにケイトが乱入してきていろいろやっていた。あれはケイトと千夜との関係性があったからできたことではあるけど、それでも平然とやってのけるケイトは凄い。年が明けたらまた会うだろうからまたいろいろ教えてもらおう。
とにかく千夜は自分の曲以上に、スピードとテクニックを短い間奏に詰め込む。雪実さんが真後ろにいる千夜へと振り返って笑いながら拍手をしてくれる。
短い間奏が終えただけで千夜は椅子に座り込みたくなるけれど、まだ仕事が残っている。千夜は今日の相棒のRR-86を肩から外し、2番を熱唱中の雪実さんに後ろから近づく。1番を歌っている時はマイクの真正面に立っていたのに、2番からは左にずれた位置に雪実さんが立っているのは、右側に千夜に入れということだ。ここから先もゲネプロ一発だから実質的にはほとんどアドリブ。まあ何かあれば雪実さんがなんとかしてくれるだろう。きっと。
千夜は雪実さんに並ぶとまずは基本どおり3度下で声を抑えてハモりに入る。そうすると客席から拍手がおきる。まあこのハモリを続けていけば無難にいい感じで終わると思う。
ハモるには3度以外にも5度とか6度とかもありだし、アドリブでリズムや音をわざとずらすこともある。また低音ではなくて高音からハモるのもありだけど、声を抑えないと主役を食ってしまうことになる。
脇役が前に出過ぎるのは良くない。この辺り千夜は経験が少ない。そして同世代でもやっぱり外国のミュージシャンのセンスに劣ると思う。
ここはおとなしく基本のハモリのまま最後まで続けようと思ったのだけど、サビの直前になって雪実さんの方から仕掛けて来た。千夜に合わせて主旋律から3度下げた状態にユニゾンしてきたのだ。これはつまり千夜に主旋律を歌えってこと? ええい仕方がない。
千夜はサビで主旋律を大きな声で歌った。雪実さんはわざとテンポもずらしたり、3度上から、6度下からハモったりとやりたい放題。まあご自分の曲だからね。でもこれ、サビのリフレインでは千夜にこれを逆をやれってこと?
まあ仕掛けられたのはこちらだから仕方がないか。千夜もできるだけ主役を立てながら、許される範囲でアドリブでハモリを入れて、最後はユニゾンで締めた。
そして千夜は司会の仕事に戻る。
「大変すばらしい歌声で、これで紅組の勝利は間違いないと確信しました。中谷雪実さんで、『下り坂の果て』でした」
所用につき、来週土曜日とその次の火曜は休載させていただきます。
次回は6日(火)に更新しますが、その次の更新は1週間開けて20日(火)を予定しております。
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