表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
みんなで私の背中を推して  作者: 多手ててと
前編:高校生編
17/284

17.筑波紅葉(1)

北先生は後手での勝率が低い。今の私なら先手が取れれば居飛車でじっくり指せば勝つことができる相手だ、筑波紅葉つくばもみじはそう思う。後手だとどうだろう。それでもキッチリ研究すれば勝てる可能性はそれなりにあるのではないかと思う。


問題は2回戦だ。舞鶴千夜のことは知っている。知っているどころか、実は紅葉は舞鶴千夜のファンだ。年始に映画を見てから、その帰りにアルバムをCDで買ってしまった。女の紅葉でも魅了されてしまう容姿。以前は下手だったらしいけど、演技だけでなく歌もギターも評価が高い。ドラマでも彼女が出ているというだけでつい見てしまう。だから正直、千夜が棋戦に参入すると聞いて紅葉は戸惑っている。チャレンジマッチでもどうかと思うが予選から参加だなんて。


「どうしちゃったんだろう……」


夕食後自室に戻り、いつもの日課で詰将棋をこなしていた時に、スマホが鳴った。紅葉がプロになった時に買ってもらったスマホだ。だが表示されている発信者を見て、女流棋士会長の岩城いわき女流五段からの電話だとわかって驚いた。


「すみません。お待たせしました、筑波です」


『夜遅い所にごめんなさいね、今日のうちに伝えておこうと思ったの』


中3の紅葉にとっても、まだそんなに遅い時間ではない。


「はい? なんでしょうか?」


紅葉は緊張しながら返事をした。会長と話すのなんて、去年女流棋士になった時以来だと思う。


『女子オープンの予選の話なんだけど、あなたが1回戦に勝てばあたる舞鶴千夜さんの話をしようと思って』


まさかわざと負けろ、なんて言わないよね。まだ義務教育期間中の少女とは言え、女流棋士としてここ1年近く活動している紅葉は、この世界、それは棋界ではなくてこの世の中全体のことだ、その狡さや汚さの一部を既に感じていた。だが盤面だけは別だと信じている。あそこは一滴の汚水も混じってはいけない神聖な舞台だ。


『実は舞鶴千夜は芸名で、彼女の本名は天道静香というの』


「はあ」


たしかに舞鶴千夜は芸名。だが本名は明かしていないはずだ。芸能界にうといように見える会長がなぜそんなことを知っているのだろう。


『天道静香、奨励会初段、それがあなたの2回戦の相手よ。もちろんあなたが1回戦を勝ったらの話だけど』


「えっ、奨励会ですか」


天道静香初段?


「今回、舞鶴さんは芸名での参戦を認められている。これは確かに異例かもしれない。でも棋力は相当のものよ。彼女が奨励会員であることは同じブロックの全員にこの時点で伝えることに決まっているの。もちろんこの事実を言いふらしてはダメよ。ちゃんと『プレーン女子オープン』にエントリーする時の守秘条項にそれとなく書いてあるから。まあそのうち世間にもバレるだろうけど、それまではダメ。何か質問はあるかしら?」


紅葉は少し混乱していた。えっ、奨励会初段の人が、映画やドラマに出たり、アルバムを出してツアーに出たり、動画配信しているの? そんなこと無理だよ。この世界は将棋の才能がある人が、一日のほぼすべての時間を将棋に捧げ続けて、ようやく奨励会に入ることができる。


「いえ、ありません」


だがそれを言葉にすることはできなかった。


『夜分ごめんなさいね。これから他の人にも伝えないといけないの。じゃあ健闘を期待しているわ』


紅葉は奨励会のページ、初段の成績で天道静香の成績を見た。残念ながら4月からの成績しか見えないが、4月の頭に初段に昇段、4月後半から初段で6連勝。白星しかない勝敗表を見て紅葉は少し震えた。次の6月の上期で2局とも勝てば彼女は二段になる。


本当に本当だろうか? 奨励会の初段、女流2級の紅葉よりはるかに格上の相手だ。棋譜も奨励会のものはないが、女流の紅葉の棋譜は公開されているので、情報戦でも不利だ。


いや、まずは初戦だ。でももし1回戦に勝てたら……手持ちのCDにサインをもらえないだろうか、と思わず紅葉は馬鹿なことを考えた。それから舞鶴千夜より、本名(?)の天道静香の方が芸名っぽくない? 紅葉はそんなもっと馬鹿なことを考えた。



翌日、紅葉は奨励会三段の兄弟子に電話をした。


『おおっ、めずらしいじゃん。なにかあった?』


おそらく兄弟子は着信表示を見たのだろうけど、改めてこちらから挨拶する。


「おはようございます、筑波です。兄弟子にいさんに聞きたいことがありまして」


『ん、将棋の話? なにかいい戦法でも見つけた?』


紅葉は自分が将棋界ではひよっこなのを知っている。それでも新しい戦法を考えるのが好きで、兄弟子の赤川三段に相談したことがこれまでにも何度かあった。今のところそのたびに欠点を指摘されている。


「将棋の話なんですけどそれじゃないです。兄弟子は天道静香初段を知っていますか?」


『意外な名前が出てきたなあ、昔奨励会で指したことがあるよ。確か1勝1敗かな』


プロの直前の兄弟子と互角だったってこと? 紅葉は気を引き締めた。自分は兄弟子に大きなハンデをもらった時しか勝ったことがない。そうすると自分が普通に戦って勝てる相手ではない。


『最初はお互いに5級だったかな? 俺より3つ下ぐらい? まだ小学生の女の子に負けたのを覚えてる。彼女はあっという間に2級まで上がっていったよ』


小学生か中学生で奨励会2級、今は高2で初段だから伸び悩んでいるのかもしれない。


『その次の年ぐらいかな、今度は3級で平手で指した。その時はあっさり勝ったのを覚えてるよ。その後5級まで落ちたのは驚いたけど』


兄弟子は妙に詳しい。奨励会は殆どが男性だから女性は目立つのかもしれない。でも2級から5級まで降級したのなら、普通はもう奨励会を辞めるんじゃないかと思う。実際紅葉は中学生で研修会をB2クラスで辞め、女流に転向した。


研修会は将棋の普及を目指す組織だが、奨励会の下部組織という一面も持っている。15歳以下で研修会でB1からA2に昇級した場合、あるいは18歳以下でA1からSに昇級した場合、奨励会6級に編入することができる。また女性であればB2以上で女流棋士2級になることができる。本当はもうちょっと細かいルールがあるけれど。


『去年の今頃5級から4級に上がったのかな? ちょくちょく負けてるけど連勝が多くて、今はもう初段だからな。奨励会仲間で聞くところでは棋風はオールラウンダー。居飛車が多いけど、振る時もある。あとやたら早指しなので、自分のリズムを崩されたって奴もいるね。たまに勝敗表を見てたけど昔から連勝も連敗も多いイメージ。それくらい?』


「詳しく教えて頂いてありがとうございます」


むしろ詳しすぎるような気もする。やはり女性だから奨励会員たちの話題になりやすいのだろうか? とりあえず聞きたいことは聞けた。


『全然かまわないよ。ところでどうしたの? 紅葉もまた奨励会を目指すつもり?』


実は紅葉も研修会にいたころは奨励会に進むことを考えていた。だが、B2クラスから全然昇級できなくなって女流に転向した。だから、いやちょっと興味があっただけです。そういって紅葉は電話を切った。だが少なくとも天道静香がもう6年以上奨励会にいることはわかった。


あれ?


そう言えば兄弟子は天道さんの棋風には詳しかったけれど、その容姿については何も言ってなかった。有名人と同一人物であれば当然そのことが話題になるはずだし、多少の変装をしていたとしても、舞鶴千夜ほどの容姿であればもっと奨励会でも話題になっているはずだ。だって帽子を深くかぶって、サングラスをかけたまま対局したら絶対に怒られる。だが研修会時代の紅葉もそんなことは聞いたことがない。そこに紅葉は違和感を感じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ